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意志なき世界の素性、目的における進化などない

進化とは
本来なら目的を持ってそれを成すために
その身体の性能を変化させると考えられてきた。
果たしてこれは正しいのだろうか?

進化という自然選択、
その選択とは、誰がする選択なのだろうか、
環境に対し生命が細胞が選び取ったかの様に見える。
確かに見える。
生命の多様性とは遺伝子的に考えれば環境を前提としてまず行われていない、合成しうるタンパク質の有無に限らず手当たり次第にその選択肢や可能性を見出して行っているのが遺伝子という存在だ。
故に引き起こされた環境の悲惨な変化にも対応し、
絶滅することなく、生き永らえ、繁栄を取り戻していったのが生命である。
そもそも変化に対し、その後合成するなどの進化であるならば、環境に対し生命の変化が間に合うはずなどないのだ。

つまりは、初めに多種多様に変化し、さまざまな環境下で生命は切磋琢磨し、より有利なものだけが生き残ったにすぎない。
結果論から見た時、確かにあたかも環境に適応するため変化を起こした様には見えはするものの、
自然選択の首謀者は常に、生命以外の何者かであった。

つまりは人が認識する進化などは起きていない事にもなりかねないということでもある。

常に世界とは盤上に並べられた碁石の変化を無気力に眺めるかの様に様相を刻一刻と変えている。
そもそもそこに何らかの意思などは存在しないのだ。

ただそれを人という人間的な何かを通して見た時、意志ある変化のように、あたかも進化が起きているかの様に見えているだけなのだ。


世界は変化を続ける、
生命の意志とは関係なく変化を与え続ける、
ただそうなった時、そうだった時、
我々が貴重としているこの時間は
何に対し捧げられている供物なのだろうか、
暇つぶしの様なこの虚しき世界の中で
我々が感じさせられている、この幻的な何かは
常に何かを支え続けているかの様なそんな気がする。
心だったり、精神だったり、
無慈悲なまでのこの世界の変化に対し、
唯一精神だけが、
事実を超え、時間を超え、空間を超え、
その存在の意味さえも超えることが可能なのだとも思える。

この世界とも呼べる、我々から認識しうるこの世界に
事実的に生命的な意志がなかろうと、
本質的な進化などがなかろうと、
それらを全て含むこのうねりは、
その認識の届かぬ世界において、
既に巻かれた種なのだと思う。

微かに起こした生命の変化、
意図的だったか、どうなのかは知らぬが、
間違いなく起きたこの変化、
遺伝子的に創られる新たなる情報は、
新種が起こすその行いは、
意志なき生命の作り出す、一つの新たな肩書きである。
無論やはり進化など起きない。
が、しかしながら何者かがやはりそれを選択する、
そう、選択するのであろう。

そしてそれをいつしかの私達は
またそれを進化と呼ぶのだろう。

そう、進化など起きてすら居ないにも関わらず。
意志など生命にはないにも関わらず、
この現象そのものが正に、神憑っているというふうに
私には思えてならないのだ。



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