シンワ4部〜知の基盤
〜第7プロセス[硬化]、柔らかな世界の変化〜
存在の許容:
この言葉に尽きる。
私たちの住む世界とは何であろうか。
この世界に本質的な嘘と言うものはそもそも存在しない。
見えないが有るものと、見えているが無いものと、
その狭間に我々という存在がある。
認識とはいつも溝に落ちていく。
嘘を嘘とする程の真実の定義もまだ薄く、曖昧に全ては存在する。
『始まりからあった者』はあらゆることを語った、
私達はその中から意識に写った事、つまりはここまで届いたコトを認知する。
人の意識に浮かぶことは既に、
全ては見えざるあらゆるコトとして語られ、
その中で励起を果たしたものを、事実として私達は識別する。
その事実の識別は変化するというのがメカニズム上の前提である。
故にこの世界は時間を追う毎に、より完全な球になるシステムの中にある。
こうして、あらゆる語られたことは常に真と偽と、実と虚を行き来する。
つまり、『始まりからあった者』が我々に語り続けていたコトとは、真実と嘘の溝を語っていたことになる。
あらゆる事が語られ(全ての意識に起きる体感)、膜に記載され、この世界が何であるか、何であったかはやがて決定していく。
このようにしてあらゆる可能性は語られてきた。
そのようなあらゆるコトを、その存在のすべてを、
許容された空間が構築されたのが泡の内部の世界である。
その世界は淡く、柔らかく、緩やかに、漂う雲のような世界である。
しかし、それはそのままではいれなかった。
『この世界が何であるか、』
その問いだけは生き続け、その答えを導かんとする意思が、
貫く知と共にその空間をも貫き、徐々に硬さを纏い、
延々と降りていったのが、この世界である。
そもそもの原理として、波長が複雑化し、高い振動数を奏で到達した世界はより固くなっていく、物質性とはそうやって顕現してきた事は確かだ。
そして、強く振動する感情はより明確になり、
柔らかさは心の奥に閉ざされていった。
そのようにして翻弄され生きていかなければならない心の世界が、感情の世界が、意識の世界が、泡の内部に到来していった。
〜第8プロセス[参照]、祖的基盤の軽
知とベクトル空間
この『知が貫く』というニュアンス内に何が存在するか、
意識の発生にはこの2つが関係する。
意識というものの存在は、我々にとって認知対象が存在するが故にその存在を言葉によって共有することができる。
感情を生み出すとされる脳内神経伝達物質、
それが存在する種とそうでない種、大きく分けたとして無機と有機、従来の考え方でいけば無機物に意識は存在しない、生物であっても植物と動物、動物であっても外胚葉の組織レベルによって意識の有無が確認できる種と確認を困難とする種が存在し、ましてや、進化の過程で脳は後天的に備わり、脳を捨てた種も存在する。
生物の進化を胚葉の変化から捉えるなら外胚葉の組織化を始めに行い、内胚葉の形成で代謝を行い、中胚葉を明確化し維持機能を発達させてきた。
生物は脳における意識を生成する前に既に外界の情報を前提である物のとし、その対象を識別するための姿勢を既に持っていた事になる。
右脳と左脳の機能からも言えるが、
意識とは既に存在するであろう莫大な情報に対し、どう認知を組み込むかというフィールドを通過した情報のみを対象としている。
つまり、我々の所有する意識はある意味既に加工済みの形態をベースとしているため意識という本質的な根深さをそもそも理解していなかったかのように思う。
意識とはすでにある世界とそれを構成させて来た脈流である『知』を捉える事で生まれたものとして発生し、恐らくその知の内部に既に認識する為のシステムがあったようにすら感じられる。
我々はそもそも存在したその機構を細胞の組織として復元させ認識してきたにすぎない。
我々が用いて言葉にしている意識という枠組みは、
あらゆる被造物や非造物における存在物とそれらを促してきたそもそもの知によって、既に構成されていたものを人としての理解における段階を経てようやく認知させている。
はっきり言って分かりづらく、伝わりづらい、
が、ここでこれをはっきりさせる理由がある。
そもそもの泡内部で作られた空間がなんで構成されているかという所に至るためである。
『泡という空間が既に意識としての存在』だからだ。
泡という一つの宇宙は、意識という構造を既に持ち、それをそのものの世界を認知するために発達したのが生物であり、あくまでも脳という器官は生存戦略として、情報を取捨選択する側として働き、それがそのまま生命維持に関わる為に、その種にあった情報の不可分を精査していると考えるほうが正しい。
つまり意識はあるものを捉えた姿として映し出すのではなく、常に減数式に行われ、その種にとって処理不能な情報量はどの段階においても淘汰される。
泡内部に存在する意識という名の情報量の総和は、泡内部の生命種にとってはどの段階においても手に負えない程の質量であり、存在としてのキャパを超えようとした時、対応できなければ単純に脳はバグる。
故に生命はその意識の情報量を軽減させてでも生存の選択を取る。
同属種であろうと、情報に対する『対応可能性』も『その存在が何であるか?』の答えによる影響の現れにより共有されることなく、淘汰される事もかなりの大枠で起きる。
個人に備わる『対応可能性』を私は基盤として捉えているが、その基盤内部を構成している管がそもそもの知。
祖的基盤の軽という言葉は、基盤の軽量化が、内部生成の系統として常に選択される傾向にあるという意味でもある。
それについて幾つかを詳しく見ていく。
貫く知と基盤
意識種
感情の雲
知というプロセスを本来むき出しとして行う基盤が存在するが、泡はあらゆる物の見え方から『この世界が何であるか?』の特定を行うというシステムを所有するためそもそも知に対する欲求を人は捨て去ることができなかったのだろう。
あらゆる感知と感受サンプルのため観るという機能がやがて生まれていくが、これは知が重ねられてきた基盤により変化していったもの。
コレはある意味、意識自体が誤作動を阻止するためでもあるが、そのせいで認識の生態系を狭められてしまったことは間違いない事実であろうとも思う。
というか、この傾向が生まれるのは仕方なかったのかもしれない、泡内部に生まれた神という空間に神という存在が生まれ、やがて明確になっていく波長はあらゆる意識種を神の空間にその存在を許していく、包括性に富む神が内包した意識も様々あり、それぞれが神として独立し力を纏う。
そして意思を武器に男性性は顕現していき分裂していく神の世界が生まれていった。
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