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シンワ2部〜生命性とトーラス



〜第5プロセス[付与]、次世界創造と生まれる神的空間〜


この項に入る前に2つの空間を元に詳細を組み立てていく。

トーラス

知の空間(見た光景の次元をこことして考察を纏める)

知とは何らかの意識内にのみ存在するものではない。
あらゆる存在として考えうるもののその特徴は、そもそもの相対的知により記され顕現する。
トーラス内で生成される局所的部位の特徴もまた、その知を伴い空間として生まれてくる。
その生み出された空間に発生する力、それが無機物的な特徴として、いわゆる向きとして生まれた時、その動きとその強度により、ベクトルが生じる。

知は元来位相的に様々な空間へと派生するアメーバのようなもので、空間化させる物もまた知そのものであるといえ、知がベクトルに特性を与え構造化したものがいわゆる空間である。
この立場における空間とは、座標的なものを脱し、既に流動性を捉えたものでもあり、その空間自体に常に変化を与えうる物もまた知でもあるが、
トーラス内部に存在する揺蕩う空間であろう、その空間に変化を与えうる知とは、人知を超えた理であることは確かだ。
知という概念にもスケールが存在し、
地球とラニアケアが、比較不能なレベルであるように
既にそのようなスケール比が実在していた。
つまりは、知(流動的知)は、知(相対的知)により創られ、知(ベクトル的絶対知)により変化していくと言い換えることもできる。
これらの構造的形状はフラクタル的に構成されているものでもあり、弁証法的に相対的知を予言することは、我々でも扱えれるような知を辿り、より純化させることで可能であると考える事もできる。

我々が扱う意識内に存在する、心を形成する様々なベクトルも
拡がろうとする力、上昇、下降、左右への旋回、回転などの動的スケールをモデルとして映し出される。
意識の根を辿ろうとした時、
根源的性質の始まりはやはり緩やかなものであった、
それらが作り出す空間、曖昧に広がる空間、
それは我々がよく知る感覚の空間、情緒の世界ともよく似た世界でもある。

トーラス内部における情緒的流動性の空間:
緩やかなベクトルでのみ構成されている世界
ベクトル的矛盾を受け入れやすい世界でもある。
悠久性、普遍性、安寧性、などの性質を持つ力が、揺蕩う流動性として空間を維持しうるのはやはり、知というエネルギーの前提あってのものだろうし、その知のスケールはやはり我々からは認知しがたいものでもあるが、実質存在している。
その証拠にフラクタルという概念がそもそもまかり通るわけであり、理として表現されるものの形状を支える力がそもそもの知。

トーラス内部に発生するこの空間性に関して言うならば
ここに置ける知の性質とは真理から直接的にもたらされる胎動性を元に示されていると言うことも出来る。
※ただひとつ付け加えるなら、
ここでの情緒的空間を我々が直接的に認知することは基本的には出来ない。
我々が見る情緒的空間とは根本的に存在としての次元が違うと言ったほうがいいのかもしれないが、システムとしては応用されている。
情緒観測の経緯:
流動的その世界に示された知そのものが、
泡の膜にあるプログラムにより組み立てられる経緯が存在し
我々はそれを、認知し、情緒として受け止めるのである。
我々の見る情緒としての光景はいわば膜により翻訳された空間であるとも言える。
特徴としてはあらゆる二元性の分離の前の段階に位置するものであり、それらが溶け合った状態は本来的な精神性を示す空間でもあるが故に、あらゆる二元性を許すコントラストとして存在するのである。

揺蕩う空間とトーラスの関係性:
過去回想を含んでの想起ではあるが感覚は確かである。
おそらくではあるが、この揺蕩う流動性のある空間とは
やはり根源的なトーラス内部にあるのは間違いないかに思う、
私が見たトーラスの帯自体の放つエネルギー性とその時私がいた空間内部に存在する空気感は明らかに異なっていた。
帯には以降生み出されていくであろう全ての事が記録されていたが、明らかに内部のその空間だけは普遍的空間性が存在しており、そこはまさに揺蕩う空間であり、個が所有する全ての概念はそのまま保持されてはいたが、何も認識する事は無かった。
概念上、手はあるが存在としての手はなく、過去も、未来も含め全てがあのトーラスの帯の所有物であり、対象として認識を持つことは可能だったが、事自分に関しても今という瞬間を除いての全てを帯が所有しており、この身には無かった、がそれは当たり前のようにも感じた。
顕在的に生きる感覚からしたらとてもじゃないが理解不能だろうが、数秒後の自分はあの帯の中の何処かには存在し、過去の自分も存在し、ただ、瞬間としての自我自体の許される場は、
この場にしか存在しなかった。

『今』と、それ以外の瞬間:
要するに、
今と言う瞬間のみは特別である、
これは精神論というわけではなく、存在する次元、位置、概念、含め根本的に完全に別物なのである。
例えば、今という体験者の根は、ここに居る私ではなく、おそらくそこにいる私であるし、おそらくコレは全ての人に言えることである。今という本質的空間は実際的にはトーラス内部に存在し、全ての未来、全ての過去、それらは全て、トーラスにのみ存在し記録されていく。
(簡単な例えをすると白紙の紙にタイピングマシンなどで記録を綴るイメージがそうだ、綴られる前である過去と、特に関係性を持つものがおそらく無でもある。)
本質的空間に存在する本質的今は、一緒にのみ存在し、『私』を受け継ぐすべての可能性内のモノが、それぞれに今を見るのである。
あらゆる想起、夢、思考、同一性、共時性、総ては取り纏める『私』との連関が起こすものであり、無形物のモノに敏感さを持つのであれば、その情報はより効率的にトーラスに影響を及ぼすし、トーラスはそれを蓄積していくための機関、それが総体化し内部に影響を及ぼし、内部の空間をさらに成長させ、コトへと還元し、コトをより成長させるシステムとしてこれらは働き、対称性の形成を促進させ、真理をより完全な物に作り変えていくのである。
故に、あながち、現実がバーチャルであるという主張はまちがってるとは言えないが、帰結の解釈はいつの時代も危険性を持つ為、下手に答えを出すこともまた危険である。



盤石の大地と生命性のトーラス、『シンセイ』の領域


始源性のトーラスの放つ知により形成された空間、それがまさに盤石の大地ではあるが、その大地の蠢きはトーラスの作り出す不安定性により増していく。
これまで書いてきた記事の中で、何度かこの言葉(盤石の大地)を用いてきた、
この言葉の意味する空間はトーラス内部の空間そのものである。
そして、その大地から立ち上る湯気の様なものは狂った母数を持つ確率論の生態系の中に存在する。
その湯気の先に生まれていくものが実数であり、あらゆるものであり、それが生命性としてのトーラスを描いていく。
要はココの空間は理由のわからない天文学的確率論の中に形成された、あらゆる概念の励起化現象を支える世界、
所謂顕現を司る世界である。
始源性トーラスが生成した盤石の大地が如何に次世界の創造の促しの中で神的空間を生成し分離させたかの様相である。

生命性:トーラスの印象から得られるコト
不安定性から振動という特徴を備えだすことで
揺蕩う空間もまた分離を示し、概念を細分化していく、
空間からみるにトーラスの放つエネルギー性は神聖さが霞むくらいの夥しい概念を含んでいる。
美しくもあり、禍々しくもあり、荘厳でもあり、おどろおどろしくもあり、まるで生命のようなほとばしりを撒き散らしながらもその細かな帯の中には無機質に事実のみが散りばめられ、とてもじゃないが形容不能なほど様相だと言える。
あれからずいぶん時は過ぎたが、あのエネルギー性は今でも覚えている、しかしながら勿論あれを言い表す言語など存在せず、どれもが届かない言葉である。
真理という言葉でさえもあの異様な光景を前にすれば言葉の概念を破壊される、もっと途方も無いものだと突きつけられる。
そして何より、トーラスの放つ生命性、コレに最も困惑するだろう。
おそらく我々は生命という意味と言葉の重さを微塵も理解していない。
あれを見るからに生命という概念の重さは想像をはるかに超える程のエネルギー量を所持している、
無論、信じることすら叶わぬだろうが、
そもそもの生命性が既に、既存の神の概念の発生よりも、遥か以前に既に存在していた、
というか、
あらゆる物の躍動を兼ね備えるその姿こそがまさに生命性そのものなのである。
(そして、私が生命至上主義的な感覚を持つ理由はこれまでの神の概念との対比に由来する)
空間を形成していた緩やかなベクトルは徐々にその特徴を露わにし強いベクトルが生まれていき、それは湯気のように立ち昇る。

トーラス


生命性を謳うトーラスが産まれた経緯については正直まだ不足している鍵がいくつかある
しかし完全に何もわからないというわけでもない、
断片的な記憶のように明確に映っている部分などもあるため大まかな流れは理解している。
とりあえずそこを明確にしながら記事を進めていく。

私が見たトーラスはおそらく始源性トーラスの作り出した揺蕩う空間、或いは盤石の大地そのものから生み出された以降全てのモデルだろう。
そのトーラスは湯気の様な、ボルテクスの様な、経緯を経て生成され、時間的なベクトル、空間的なベクトル、感情のようなベクトル、意識までをも明らかに備えている。
集合的無意識から個人が所有する感覚に至るまで全てがそこには存在している。

私が見た時点で、それらは既に発生した後のものであったが、
コレがどのようにして組み上がったかということも含め
時折解ったり、感覚したりする特殊な状態があるのもその時、既に無意識において紐付けられていたのだろうと思う。
人間というものはおそらくそう言う体験を無意識の内にいくつも経験するが故に様々な事を認識する種がいるのだろうとも思う。

白い世界から黒い世界に至るあらゆる世界:
①そもそも無機質な動的ベクトル以外何も存在しなかった世界、
②不安定性と共に緩やかな振幅が始まり世界は揺れ動き始める、
③緩やかに揺れ、
想いによって淡く形成されていった世界は白い世界となっていった、
④より強く揺れ明確に進もうとするベクトルは意思となり、更に世界を構築していく。
⑤色が変化していくように、やがてそれは黒い世界へとなっていく。
※鏡ガラスの空間でも、白い宇宙の向こうに黒い宇宙(我々の言う宇宙)があり、不思議とこの白い宇宙を指すと思しき逸話は多い
※この2つの所有するベクトルは比喩でも有るがまるで湯気のように盤石の大地から放出され、その想いと意思は女性性と男性性としてその性質の雛形を有し、明確に分離する。
※この湯気が構築していく空間の中で夥しく発生していく概念が世界を構築し、生命性のトーラスを形成していく。

空間の粘性と意思、感情は関わりがある。
内部に形成されていくこの世界の特徴は中心に行くに連れ波長がより高い振動数を持つ特徴がそもそも存在する。
そして、その度に空間自体は変化し、感情などの種類は明確化され、概念や性質も多様に別れていった。
要は想いや意思も本来同じ空間にあったものだが、
空間内部の粘性が増す度に振動数に変化が生じ性質が変化し、
空間もろとも分離し、その性質を分化させていった

※我々の認識上、複合的に捉えられる空間があったとして、
そこに対する認知はやはり内部からみたものであり、いくつもの概念や性質が絡みついて存在するように見えはするが、コレはおそらく錯覚である。
なぜならそれはここの次元では確かに分離されそれぞれを観測することは確かに可能であるが、内部に形成されて行くという特徴上、
認識したその空間においてのその対象はあくまでも1つの状態として存在している。
※コレは漢字で例えるとわかりやすいのかもしれない
その対象が『森』だとすると、その次元には『森』しかなく、
次の時空には『木』と『林』が生まれ、次の時空には『木』が3つになる。
我々からは3つの木を個別に概念として認識するが、森という状態は一つの感覚的空間のように感じ、それを特定する言葉が聖や邪という性質になる。

本来的に存在している筈の神的空間とは
一般的な基本概念としては、聖と邪は対立している、
しかしこれは本来的には正式に誤りである。
白い宇宙が黒い宇宙を包みこんでいるのが実態であり、
実体は包括であり、包括される者に現在の聖も含まれる。
この状態が本来神聖改め『シンセイ』な状態であり、
生命性のトーラスが放つエネルギー的な象徴も正にコレである。
神は改め真でもあり、芯でもあり、深でもあり、あらゆるシンである。
聖は改め精でもあり、静でもあり、整でもあり、あらゆるセイである。
つまり、本来的に存在するさらに深淵に位置した神的空間とは
あらゆる聖も邪も包み込む。
神聖の対義語は卑賊や世俗などと呼ばれるがバカも休み休み言えと思う、そもそも神聖を美化し過ぎであるし、そのエネルギーの質と量を侮り過ぎであるとも思う。
それが深く位置する白い領域であり、それがシンセイという音の持つ世界であり、今はまだ眠っている神的空間でもある。
この世界の特徴は秩序としてあらゆる概念を受け入れる、
邪を包む、罪を許すという意思の概念すらない、
ただ想いにより、全てが許された、許されてしまった空間である。
全てを飲み込み代謝し循環し、活動を続ける存在が生命性のトーラスである。
因みにではあるが、更に深い状態の世界ではその想いすら存在しない。
全てが無機質的にただ存在するだけで、
あらゆる存在が『ただある』という状態を混合させ、
機械的な歯車の下維持されている空間が存在する。
それが理の世界であり、そこからあらゆる知は流れてきている。
その深淵はあらゆる存在の雛形それまで所有はしていたものの、それを存在として当然所有することは無かったが明確に顕現を果たすプロセスが次に起こる。

神と言う存在がせめてこの領域で存在していたなら


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