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読書日記『くらしのための料理学』土井善晴著

意表をつかれた。とてもいい話でじーんときた。自分ではあまり選ぶことはないであろうNHK出版の学びの基本というシリーズの本だ。なぜ選んだかというと、父から「字が大きくて難しくない本が読みたい」というリクエストがあったから。興味があるジャンルとではないかもしれないが、これならさくっと読めそうな分量で持ちやすいペーパーバック。持っていく前にちょっと中を覗いておこうと読み始めたら、せわしない日常がどんどん溶けていくような気がするほどいい内容だった。

料理、というと「私作る人、僕食べる人」というCMを思い出して、あれはないよね、と思ったら、すでにその当時炎上して2ヶ月で放送中止になっていたのだった。TVで見る土井先生は、軽快な口調ながらも厳しい指導者のように映っていたので、ていねいな仕事の大切さが書かれているのだろうな、と少し身構えて読んだ。多くの家庭では、女性が仕事もやって子育てもやって、家族の料理もこなしている。その上、ていねいになんて、わかっちゃいるけど人に改めて言われたくないのだ。だが、読んでいくとそれは単なる僻みだったことがわかった。

料理という言葉には「料理されたもの」と「料理すること」という2つの意味があるという。料理する、つまり人間の行動が伴うものだ。だからといって、とにかく手間暇かけて丁寧に作れといっているのではない。「おいしい」ものを求められたら作るのは苦しくなる。また、専業主婦が時間をかけて料理をしていた時代と違って、嫌でも料理をしないといけない現実もある。土井先生はそこのところを十分わかってくれていて、ちゃんとしようと思うから手抜きが辛いのだと言葉にしてくれている。手を抜くのではなく、「要領よくやる」、「力を抜く」ことを勧めている。

ところで、ふだんの食事というのは毎日毎日豪華絢爛にする必要はない。かといって毎日栄養不足を心配するほど質素な食材しか調達できないわけでもない。このような状態の違いを、特別な日という意味の「ハレ」・弔いの日という意味の「ケ」という。それに対して、日常はどちらでもない状態であることから「ケハレ」と呼んでいる。

もう一つ和食にある一汁三菜という考え方があり、これもふつうの家庭料理を作りにくくしているという。土井先生曰く、栄養学から考えて必要十分量の栄養素が摂れる食材を使えば、おかずの数は問題ではないという。つまり「一汁一菜」のすすめにつながる。これは土井先生の著書にもあるのでご存知の方も多いと思うが、私は本屋でパラパラめくって見ただけだった。この本をきっかけに、ちゃんと読んでみようと思っているところだ。話は逸れたが、一汁一菜は、味噌汁とご飯と漬物、いわゆる「汁飯香」を基本にしている。栄養のバランスは味噌汁を具沢山にすることで解消する。確かにこれなら毎日できそうだ。ただ作るだけでは品数が減っただけということになりかねない。そのためには美意識が必要になってくる。

箸を横に置くのは日本だけです。これは、人間と自然(食材)との境界です。「いただきます」と心に念じて、自然の恵みに感謝して、箸をとって「結界」を解くのです。お茶碗などを置く「お膳」も同様です。お前には「縁高」と言われる立ち上がりがあるものがあります。これも、周囲とお膳の中を区別する結界になっています。

もう一つ、「整える」ことについて述べている。食べてしまえばみな同じでは、食べるものが「餌」になってしまう。整えて初めて料理なのだという。

 「ふつう」とは、いつもと違うことです。移ろうことが自然です。食材という自然や、人間という自然、社会というものは常に変化するからです。だから食事の場はいつも違う。同じなんてありません。それがふつうです。
 できる日はやる、できない日は「やらない」のではなくて「できない」のです。そういうことがわかった上で判断するのが、ふつうです。
 日常はふつうでいいのです。ご飯と味噌汁をサッと作ればいいのです。調理を終えてから、お膳を整えて初めて料理は完成します。なにも変える必要はありません。ここまですることで、心にも始末がついてほっとするのです。

一汁一菜でいい、ただし整えて初めて完成だ。これを知って楽になるわけではない。要は食べる人の共鳴が必要だ。茶道では、亭主と客が心を重ね合うことを「賓主互換」と言うそうだ。食べる人が作る人に心を重ねることが、負担感を拭ってくれるようだ。ここで土井先生からスカっとする一言。

食べる人はお料理をする人に、プレッシャーをかけてはいけません。料理を作る人は、家のリーダーとして「文句があるなら手伝え」と言ってください。

文句があるなら作れ、というところまで言って欲しかったところですが、土井先生が料理を作る人の味方であることがわかっただけでとても心強くはなった。この本で先生が言いたかったのは、もっと人間として、過去からの歴史を知って、暮らしの意義を知って、その上でふだんをどう生きるかという一つの学問、そう料理学という考え方なのだった。

さて、思いがけないほど良本だったわけだが、果たして家事の才能なしの父はこれを読んでどう感じるだろうか。

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