東大にはどういう人が入学しているのか
2020年、東大入試初日の国語の第1問があまりに強烈だったことが、話題になった。
始まりのこの一文はきつい。あまりにきつい。
(あくまで私の体感ではあるが)東大を受験する者の多くは、何となく親に敷かれたレールの上をただテクテク歩いて来ただけの人間だ。
何らかの目的意識を持って東大を受験しているわけではなく、単に
「自分の持てる学力に合致する大学は東大だから」
というだけの理由で受験している。
(たまに入学時点で「俺は〇〇技術者になって、〇〇分野で社会貢献するんだ」などと熱い志を語っている者もいるが、少数派である)
「なんで、私が東大に!?」という広告をよく見かけるが、実際には東大生の多くは「普通に臨めば受かるだろ」という意識で東大を受け、危なげなく受かった人間である。
「なんで私が・・・」とびっくりしながら入学してくるのは全体の1割にも満たない。
では、どのような家庭で育って来た人間が東大に入学しているのか。
多くは、教育に相当な金額を投資して来た家庭である。それも、小学校低学年(遅い場合は5年生くらい)から名だたる塾に通い、その後は中高一貫校で「勉強して当たり前」という環境の中で育って来た。
それは、両親が高額の金銭を費やすことで作り出して来た環境なのだ。
それだけの高額な金銭を費やすということは、当然に両親は高賃金の職を得ており、それはとりもなおさず両親が高学歴であることを意味する。
2次試験の初日、国語の問題用紙をめくると真っ先に目に飛び込んでくるのが「教育を媒介にした階層構造の再生産」という文字だ。それを目にするや、
「ああ、自分がこうして東大を受験しているのもまた、階層構造の再生産だったのか」
と気づかされる。
あまりといえばあまりの体験だ。
だが、これは東大が変わろうとしているサインのようにも思う。
「この文章を目にして、身につまされる思いを抱かない人間は、東大に入る資格はない」
大学側から受験生へのそうしたメッセージが込められているような気もする。
上野千鶴子は、2019年の東大入学式でこう述べている。
異論もあろうが、少なくとも私が在籍していた期間、東大にこのような意識を持った学生は(私自身も含め)皆無だったように思う。
これは社会に出た後も変わらない。
自らが生育環境に恵まれて来たことに思いを致さず、
「低所得層は子供の頃に頑張らなかったのだから、自己責任」
としたり顔で語る高所得層の何と多いことか。
東大はいち早くこうした学生の気風に気づいたのだろう。
何かと毀誉褒貶の激しい上野千鶴子にあえて祝辞を語らせ、その翌年には国語第1問で「階層の再生産」に焦点を当て、そうした社会の現状に自覚的な人材、そうした社会を変革し得る人材を送り出そうとしている。それが最高学府としての責任であることに気づいている。
願わくは、エリート層とされる人々こそ、自分という資産がいかなる投資によって作り出されたかについて、自覚的であってほしい。その持てる能力を、残念ながら投資を受けられなかった層に貢献するために使ってほしい。
(稼いだ金をバラ撒けという意味ではなく、貧困を解消するための仕組み作りに頭を使ってほしい)
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