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やっぱり間違いだらけだった平安時代 ~日本史入門書に嚙みついてみる④~

後藤武士「読むだけですっきりわかる日本史」(宝島社文庫)の誤りを頑張って100個見つけようという企画。
現在のところ、
第1章 旧石器~古墳時代:8個
第2章 飛鳥~天武王朝時代:10個
第3章 奈良時代:6個
と低調であり、このままでは100個には届かない。

しかし、第4章「平安時代」は35ページに渡るロングチャプターであり、ここで数を稼げそうな気がする。

さっそく校正作業を始めていこう。

①桓武天皇は徴兵制を廃止していない

桓武天皇は京都の平安神宮に祀られているけれど、随分いろいろ思い切ったことをした天皇でもある。たとえばこの人は徴兵制を廃止した

本書66ページ

これは、桓武天皇が「健児の制」を開始したこと、つまり農民から兵を徴発するのをやめて郡司の子弟などから職業軍人を雇い入れるようにしたことを指すのだろう。
しかし健児の制は全国で導入されたわけではない。「廃止」は言い過ぎと思われる。

②単純な漢字変換ミス

のちに藤原良房という人がこれまた人臣で(天皇家以外で)、初の太政大臣になってさらに実質上の摂政となり、その甥で義房の養子の基経に至っては・・・

本書70ページ

さっきまで「藤原良房」と正しく変換できていたのに、突然「義房」になってしまう。単純な漢字変換ミス。

③関白に「人臣初」はない

のちに藤原良房という人がこれまた人臣で(天皇家以外で)、初の太政大臣になってさらに実質上の摂政となり、その甥で義房の養子の基経に至っては、ついに人臣初の関白になってしまう。

本書70ページ

「人臣」とは皇族ではない人全般を指す言葉。
初の摂政は聖徳太子(皇族)なので、藤原良房は「人臣初の摂政」というように、「人臣」という限定句を設けて表現する必要がある。
一方、関白についてはそもそも皇族で関白になった人はいないのだから、基経は「初の関白」であって「人臣初の関白」などと表現する必要はないのだ。
まあ間違いというわけではないが、不要な限定句を設けてしまっている。

④フランクリンは現代の人物?

さらに天皇のすまいである皇居に雷が落ちて、大勢の人が死んだり重症を負った。雷が電気だと発見したのはアメリカのフランクリンだ。それもこの時代より1100年もあとのこと。

本書74ページ

清涼殿落雷事件は930年の出来事。
一方、フランクリンの雷の研究は1752年の出来事。
「1100年後」ではない。
というか、1100年後って現代じゃないか。

⑤平将門の乱の開始時期は4年遅くなった

初めは天皇や貴族からはたいした扱いを受けていなかった武士だけれど、10世紀に起こった二つの反乱をきっかけにその力が恐れられるようになった。それが935年の平将門の乱と939年の藤原純友の乱だ。二つをあわせて承平・天慶の乱などとも呼ばれているよ。

本書77ページ

これは微妙なところ。
かつて平将門の乱は935年の出来事とされていたが、最近は939年とされている。というのも、935年時点では将門は伯父の国香と戦うなど一族同士で戦っていただけで、まだ朝廷への反乱という段階にはなっていない。将門が明確に反乱を起こしたといえるのは939年なのだ。

⑥下総国=千葉県ではない

平将門はもともとは下総(今の千葉県あたり)に住む武士だった。

本書77ページ

これは惜しい。
旧国名と現在の都道府県とは若干のズレがある。下総国(しもうさのくに)というと千葉県の北部を指すが、微妙に現在の茨城県南西部も含まれている。
そして平将門が住んでいた場所は、下総国であるが現在の茨城県坂東市及び常総市。千葉県ではなく茨城県である。

⑦藤原純友が捕縛された場所は九州ではない

結局将門は戦死し、純友も逃亡先の九州で捕らえられ処刑された。

本書78ページ

藤原純友は九州で敗北したが、その後逃亡して、捕らえられた場所は伊予(愛媛県)である。九州ではない。

⑧定子と彰子、どちらも正室

道長のすさまじいのは三人の娘を三人の天皇の后としてしまった
こと。これは今まで誰にもできなかった快挙だった。まずは娘の彰子を一条天皇のもとへ。ちなみにこのときの彰子の家庭教師が「源氏物語」で有名な紫式部だ。このとき一条天皇には定子という奥さんがいたんだけれど、道長の政治力であとから来た彰子が正式な奥さんになってしまった

本書79ページ

これは面白い間違いかも。
著者のいう「正式な奥さん」というのは、つまり正室のことだろう。
定子は一条天皇の中宮となるが、道長はその定子を「皇后」に祀り上げ、空いた中宮ポストに娘の彰子を据えてしまった。
つまり定子と彰子、どちらも「正式な奥さん」なのだ。これが「一帝二后」と呼ばれて物議をかもしたのは有名な話。

⑨漢字の読み方

こういうとき政治の実権をもっている上皇や法皇を「治天(じてん)の君」というけれど、難しい言葉なので今は覚えてなくてよいだろう。

本書87ページ

「治天の君」の読み方は「ちてんのきみ」である。まあ著者自身覚えてないくらいだから、当然覚えなくてよい。

⑩保元の乱の頼長は討ち死にとは言わない

他の敗者に関しては、頼長は討ち死に、忠正、為義は京都の有名な処刑場六条河原で処刑された。

本書89ページ

「討ち死に」とは戦闘員が戦死することをいう。
藤原頼長は公卿であって戦闘員ではなく、保元の乱では逃げるところに流れ矢がたまたま当たって死んだ。これは「討ち死に」とは言わず、横死と呼ぶべき

⑪平忠正の処刑場所は六条河原ではない

他の敗者に関しては、頼長は討ち死に、忠正、為義は京都の有名な処刑場六条河原で処刑された。

本書89ページ

平忠正と源為義の処刑場所は六条河原ではない。
処刑場所は、忠正は六波羅、為義は船岡山又は七条朱雀である。
京都の有名な処刑場といえば六条河原なので、ついつい筆が滑ったのだろう。

⑫平安時代に死刑はなかったわけではない

実はこの処刑、日本では数百年ぶりの死刑なんだ。貴族は怨霊を信じていたから、あまり人を殺したくなかったんだろうね。

本書89ページ

これは誤解されやすいところ。保元の乱において平忠正・源為義らは死刑となった。陣定(じんのさだめ:公卿たちが集まる会議)で死刑が決まったのは確かに数百年ぶりのことだった。
しかし実際には、盗賊などの処刑は陣定にかけるまでもなく検非違使らの判断でいくらでも行われていた。「身分の高い者の死刑は数百年ぶり」と言うべきだろう。

⑬平治の乱で藤原摂関家の内部争いはない

後白河がかわいがったのは平清盛のほうだった。当然義朝は気に入らない。自分の父親を手にかけてまでも後白河の勝利に尽くしたのだから。そこに毎度おなじみ朝廷内の争いと藤原摂関家の内部争いが加わって、戦となる。これが平治の乱だ。1159年の出来事。

本書90ページ

保元の乱では、藤原摂関家において兄・忠通と弟・頼長の争いが一因となった。しかし平治の乱においては、藤原摂関家の内紛は特段起こっていない
おそらく著者は、藤原信頼と信西の争いを「藤原摂関家の内紛」と誤解したのだろうが、実際には信頼も信西も(藤原一族ではあるが)藤原摂関家の人間ではない。

⑭伊豆半島を離島扱いしないで

清盛も初めは許す気はなかったけれど、池禅尼が頼朝の命を助けてくれなかったら何も食べないなんて断食を始めてしまうものだから、仕方なく彼の命を助け伊豆へ島流しにした。

本書90ページ

頼朝が流された先は蛭ヶ小島(ひるがこじま)といって、現在の静岡県伊豆の国市である。本州の中にあるので、島流しではない

⑮頼朝が隠れていた場所は?

実際頼朝は初戦は勝ったものの、そのあとの石橋山の合戦ではこてんぱんにやられた。ここで有名な命拾いをする。戦に負けて大きな木のうしろに隠れていたところ、敵の梶原景時に見つかってしまった。ところがこの景時はなんとそれを見逃したというんだ。

本書94ページ

石橋山の敗戦の後、頼朝が隠れた場所については文献によって多少表記が異なり、2つの説(というか創作エピソード)がある。
吾妻鏡によると、頼朝が隠れたのは洞窟で、別名を「しとどの窟」という。
源平盛衰記によると、頼朝が隠れたのは「伏し木の洞」。つまり朽ち果てて倒れた大木の幹にできた空洞。そんなところに人が入り込めるとは思えないが、まあそう書かれているので仕方ない。
というわけで、「大きな木のうしろ」という説はない。恐らく実朝暗殺時に公暁が隠れていた大イチョウの木と混同したのではなかろうか。

⑯清盛の発病のタイミングが違う

富士川の敗戦を聞くと清盛は大激怒だ。それはそうだろう。かつて命を救った頼朝が恩を仇で返したのだから。ところが残念なことにこのとき清盛は熱病にかかってしまっていた

本書95ページ

清盛が富士川の敗戦を聞いて大激怒したのは治承4(1180)年11月のこと。
一方、清盛が熱病に倒れたのは治承5(1181)年2月27日のこと。
3ヶ月くらい間が空いている

⑰範頼を忘れないで!

さて勢いを盛り返した平家と義経をリーダーとした頼朝軍はこの後、一の谷(今の兵庫県)で戦う。

本書97ページ

一の谷の戦いにおける頼朝方の総大将は、義経ではなくその兄の範頼である。確かに存在感薄いけど、忘れないでいてほしい。

⑱畠山重忠を侮辱するな!

そのガケもとても険しいガケでね、普通だったらギブアップするところなんだけど、ここが義経のすごいところ。地元の人間をつかまえて、「このガケは馬が下れるか」と聞く。「そんなことは無理です」と答えられると、「では鹿ならどうだ?」と。地元の案内は「鹿は下ることができます」と答える。すると義経は「おい、みんな聞いたか? 鹿が降りられるのなら同じ四本の足を持つ馬が降りられないわけがないよな」と。「そんな無茶な」って話だけれど、それをやってしまった。馬で降りるのが怖くて馬を担いで降りた武士もいたそうだけど、そんなこんなで降りられるはずのないガケから平家に奇襲をかけた。

本書97ページ

これは畠山重忠に謝ったほうがいい。
皆が崖を駆け下りていく中、畠山重忠は名馬「三日月」が怪我をすることを恐れて、馬を背負って崖を駆け下りたのだ。あくまで馬を気遣ってのことだ。
なお、埼玉県深谷市の「畠山重忠公史跡公園」には、このときの重忠の姿が銅像として建てられている。

馬を背負った畠山重忠像

⑲熊谷次郎直実の読み方

この戦では、古典で有名な熊谷次郎直実(くまがやじろうなおざね)と敦盛のエピソードがある。

本書98ページ

熊谷次郎直実の読み方は「くまがい(の)じろうなおざね」。
彼の領地はなぜかその後「熊谷(くまがや)」という地名になった。地名と人名で読み方が異なるのだ。

というわけで・・・

以上、平安時代は19個の誤りを発見できた。
これで計43個だ。目指せ100個!

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