「血が通っている言葉でなければつまらない」2018 2/9


「人の話には血が通(かよ)っていないとつまらない」

西岡文彦先生が授業中ボソッと呟いた言葉である。生徒が皆の前で普通の客観的な話を喋っているときに言ったものである。何を話していたか覚えていないが・・・

僕は、一瞬だけ先生が言ったこの言葉がずっと頭のどこかに残っている・・・。なぜかは知らないがずっとだ。それぐらいこの言葉は印象深く残った。


血が通う話とは

血が通う話とはなんだろうか。また血が通ってないとなぜつまらないのか。

辞書で調べると「人間味があること」と出てくる。人間味は「人間としての豊かな情緒。また、人間らしい思いやりや、やさしさ。」と出てくる。つまり「人間が持っている優しさや、温かみがある」と噛み砕いて理解できる。血が通った話というのは、人を褒めたり、嬉しかったことを言ったりすることなのだ、と推測できる。

絶対違う。

西岡先生はそんな事は言わない。西岡先生が唯一担任している「総合美術論」というのは「美術史を映画や小説の名場面の映像などを解説し、美術に対する理解を深める」と言った趣旨の授業だ。毎授業ごとに映像を用意しているのだが、必要であれば生徒同士で議論する場を設けてくださったりもする。授業はじめに「何かありますか?」と言い、推進してくれるのだ(9割スルーされるのだが・・・)。

そんな数少ない議論が起こった貴重な場で、「血が通ってない話をするな」というのだから絶対違う。絶対に褒めろだとか共感しろだなんてつまらない事は言わない。むしろそのような偽善に近い行為を嫌う人だ。

西岡先生が言いたかった「血が通った話」というのは「人間の感情が入った話」のことだろう。逆にいえば「ただのデータはいらない、貴方の意見を言え」ということ。

結局人の話で面白いのは人の感情が織り混ざった語りであって、調べれば出てくるデータを列挙してつまらない、反論しようがない話をするなという事に解釈している。

1つの物事議論しているときに、特にデザイン等に関しては、血の通っていない客観的で無機質なデータを用いての議論や考え方が大事だったりもする。でも結局デザインの最終目標は社会に貢献することなのだから、いつかは〜〜の為にしたい、〜〜をできるようにしたい、と言った私の通った話が必要になる。ここまで昨日買ってない無機質な話をする人がいたら、その人はデザイナーに向いていないだろう、いやデザインだけでなく何をしてもうまくいかないだろう。人間がもっと社会に貢献するのはクリエーションなのだから。

何かを話すとき、血が通った話と血が通ってない話をする、どっちの話をするか意識して分けたほうがいいかもしれない。そうすることで話を整理することもできるし、話の強弱も付いてより会話や思考が楽しくなるかも。そうなればきっともっといいクリエーションができる。noteに書き込む時も、意識しようかな。

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