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戦士王列伝③ エイリーク・ホーコナルソン

戦士「王」ではないけれど、大好きなヴァイキング戦士の一人、ラーデ(フラジル)の侯(ヤール)エイリーク・ホーコナルソン(Eiríkr Hákonarson)について書きたいと思います。
彼は一時期(11世紀初頭)、ノルウェーの実質的な支配者でした。

同じ名前でもエイリーク血斧王、赤毛のエイリークに較べると知名度が低いですが、ヒョルンガヴァーグの戦いでデンマークとヨムスヴァイキングに勝利し、スヴォルドの海戦ではデンマークのスヴェン王らとの同盟軍で宿敵オーラヴ・トリュグヴァソン王を倒し(長蛇号を乗っ取ったのはエイリーク侯)、さらにはスヴェン王の次男クヌートのイングランド王即位に助力。その後ノーサンブリアを褒賞としてクヌートから貰っているので、イースト・アングリアを貰ったのっぽのトルケルと同レベルの扱いです。10世紀の有名な2つの戦いに勝利した英雄なのに、過小評価されすぎなのでは……と思い、彼の功績をまとめました。


出自

エイリークはラーデ(古ノルド語 Hlaðír フラジル)の侯(ヤール)ホーコン・シグルザルソンの長男として960年代に生まれました。
ウップランド出身の母の身分は高くありませんでしたが、エイリークは実力で後継者の地位を確立したとみられます。
フラジル(ラーデ)は中世初期のノルウェーで最も有力な首領たちが存在したスラーンドヘイム(現在のトロンハイム周辺、トレンデラーグ地方)の中心地でした。

※ホーコン、エイリーク親子は「ラーデの侯(ヤール)」として知られているので、この先は古名のフラジルではなく「ラーデ」に統一します

ヒョルンガヴァーグの戦い

エイリークが大きな勝利を収めた2つの戦いのうち、最初の戦闘が986年頃に起こったヒョルンガヴァーグの戦いです。
デンマークのハラルド・ゴルムスソン(青歯王)とヨムスヴァイキング(現在のポーランド、ヴォリン島にあったとされるヨムスボルグを拠点にした戦士集団)が Sunnmøre 沿岸でラーデの侯家と戦いました。
エイリークは大型の軍船を数多く所有するヨムスヴァイキングに果敢に挑み、首領のシグヴァルディを敗走させ、二十隻の船を率いる船団長ヴァグン・アーカソンを生け捕りにしたのでした。

Halfdan Egedius: Illustration for Olav Trygvasons saga. Snorre 1899-edition.
«Uveiret under Slaget i Hjårungavaag.»

戦はラーデの侯家の勝利に終わり、エイリークはヴァグンを助命。自分の従士の娘を嫁がせ、彼との友情を得ました。ヴァグンはその後、デンマークで名士になったそうです。

スウェーデンへの亡命とバルト海

995年、ハラルド美髪王の曽孫にあたるオーラヴ・トリュグヴァソンがイングランドからノルウェーに帰国。当時ノルウェーの実質的な支配者であったラーデのホーコン侯を倒す為、スラーンドヘイムにやって来ました。オーラヴはホーコン侯を襲撃、スラーンドヘイムを制圧。ホーコンの息子の一人エルレンドがこの戦いで戦死しました。ホーコン侯は愛人宅の家畜小屋に隠れていましたが、共にいた下男(奴隷とも)カルクに裏切られ、殺害されました。
そしてオーラヴはカルクを処刑、ホーコン侯とカルクの首をフィヨルドの小島に晒したのです。晩年の悪行が祟ってか、侯を憎む民衆は石を投げつけ、死者を罵ったといわれています。
この時、エイリークは留守にしていた為、難事を逃れました。彼はオーラヴへの復讐を誓い、異母弟スヴェンと共にスウェーデンへ亡命したのです。

スウェーデンのオーロフ王(ノルド語ではオーラヴ・エイリークスソン)の客人となったエイリークはバルト海に出て、周辺地域を襲撃、掠奪を繰り返します。ノルウェー王となったオーラヴ・トリュグヴァソンに対抗する為の資金稼ぎと思われます。
エイリークはバルト海の東岸で海賊と戦い、デーン人の商船4隻を奪い、アザルシュースラ(西エストニア)とエイシュスラ(サーレマー島)で掠奪、アルデイギュボルグ(スターラヤ・ラドガ)の町を焼き、ホルムガルズ(ノヴゴロド)でも掠奪を行ないました。

三国同盟

オーラヴ・トリュグヴァソン王のキリスト教化に反発する反オーラヴ勢力を味方に引き入れ、力をつけたエイリークはデンマーク王スヴェン・ハラルズソン(双髭王)の長女ギュザと結婚、デンマークと同盟を結びました。スヴェン王はかつて所有していたノルウェー南部の領地をオーラヴから取り返したかったので、エイリークとの利害関係が一致したと思われます。
また、妻に先立たれたスヴェン王はスウェーデンのシグリーズ女王(オーロフ王の母)と再婚(これにはエイリークが一役買っている)、ここにデンマーク、スウェーデン、ノルウェー(反オーラヴ)の三国同盟が成立しました。

スヴォルドの海戦

エイリークが勝利した大きな戦いの2つ目がこの海戦です。
オーラヴ・トリュグヴァソン王はデンマーク王スヴェンの妹テュリを妃にしていました。テュリは兄王に命じられた政略結婚でヴェンドランドのブリスラブ王に嫁ぐはずでしたが、異教徒であった王のもとから逃れ、ノルウェーでオーラヴ王の妻となったのでした(テュリはオーラヴ王と同じキリスト教徒)。彼女の持参金問題の解決の為、大船団を引き連れてヴェンドランドを訪れたオーラヴ王の帰路を狙い、エイリークとスヴェン王、オーロフ王はエーレスンド海峡でそれぞれの船団を率いて待機していたのです。
そしてスヴォルド島の近海で後に「スヴォルドの海戦」として知られる大規模な海戦が起こりました。

Eiriks seier i slaget ved Svolder var hans mest feirede dåd. «Slaget ved Svolder» (1883), Otto Sinding.


オーラヴ王の旗艦〈長蛇号〉Ormurin langi(The Long Serpent)は、船首と船尾の装飾部分が黄金で覆われた、当時のノルウェーで最も大きく豪奢な軍船でした。
王は〈長蛇号〉を中心に、王の以前の旗艦〈鶴号〉や、キリスト教への改宗に応じなかったハロガランド(ノルウェー北部)の首領から接収した〈小蛇号〉など11隻を船索で繋がせて、海上の要塞を作り上げました。

前方に現れた〈長蛇号〉を見て、先手を打とうとしたデンマーク軍とスウェーデン軍でしたが、彼らは苦戦を余儀なくされました。
〈長蛇号〉の左右には〈鶴号〉と〈小蛇号〉がいるため、船上から矢を放っても〈長蛇号〉に届きません。逆に、巨大な〈長蛇号〉は他の船よりも長く、高さがあるので、矢や投槍を敵船に向けて上から打ち下ろすことができました。
無数の矢の雨を受け、大打撃を被ったデンマーク軍とスウェーデン軍は、矢の届かないところへ退避するしかありませんでした。
旗艦〈鉄鬚号〉の船上でその様子を見ていたエイリーク侯は、自ら率いる船団を左右に分け、海上の要塞を外側から攻める作戦を考えました。
最も外側にいる船から順に攻撃を仕掛け、船首を繋いでいる索を切断し、最後に残る〈長蛇号〉を孤立させるのです。

戦上手で知られるエイリーク侯の作戦は成功し、ついに〈長蛇号〉は孤立。エイリークは〈鉄鬚号〉を横づけし、自分の兵たちを次々に〈長蛇号〉に飛び移らせました。
エイリーク侯のスカルド詩人ハルドールは次のように謡っています。

  晴れやかな侯(エイリーク)は
  勇士らの戦意をかきたて
  オーラヴの部下を船尾へ走らせる
  黄金を撒き散らす高貴なる王がもと
  舵の馬(長蛇号)のまわりにて
  烈しき戦いが巻き起これり

Halfdan Egedius – Book: Snorre Sturlaśon - Heimskringla, J.M. Stenersen & Co, 1899.


〈長蛇号〉の船上で激しい戦いが繰り広げられ、エイリークはついに仇敵オーラヴ王を追い詰めますが、もはやこれまでと悟ったのか、エイリークの眼前でオーラヴは楯を頭上にして船縁から海に身を投げたのでした。

スヴォルドの戦いは、エイリーク侯とデンマーク・スウェーデンの同盟軍が勝利しました。
海中へ身を投げたオーラヴ王の遺体は上がらずじまいでした。

ノルウェー支配

スヴォルドの海戦で勝利したエイリークと異母弟スヴェンは、デンマークのスヴェン王との取り決めにより、1000年~1012年頃までノルウェーを実質支配しました。
また、エイリークはスヴォルドの海戦で助命したオーラヴ王の射手、エイナル・サンバルスケルヴィルを妹のベルグリョートと結婚させました。エイナルはエイリーク侯の男気に惚れたのか、誠意をもって彼に仕えました。
オーラヴ王の義兄(王姉アストリーズの夫)エルリング・スキャールグスソンとは生涯ライバル関係にあったものの、表立った衝突はなく、協定を結び、平和を維持したようです。

義弟クヌート王に助力

エイリークは妻ギュザの弟でスヴェン王の次男クヌートに助力を乞われ、1014年か1015年にイングランドへ向かいました。
『ファグルスキンナ』によると、エイリークは「精錬された知性と幸運を備えた経験豊かな戦士」であり、まだ若くて未熟なクヌートにとって良き相談相手であるとみなされたのでしょう。
1016年にイングランド王エセルレッド2世が崩御した後、クヌートはマーシアの太守エアドリクを追い詰めます。一時は味方に引き入れたものの、エセルレッドの後継者であるエドマンド(剛勇王)とクヌートとの間で風見鶏のように振舞っていたエアドリクは1017年のクリスマスにクヌートに殺害されました。
11世紀イングランドの史料 Encomium Emmae Reginae 『エマ讃辞』には、クヌートに命じられたエイリークが斧でエアドリクの首を落としたと書かれています。
※エマ・オブ・ノルマンディーはエセルレッド2世の寡婦でしたが、クヌートと再婚

エイリークはクヌートと共にイングランド南部や北部を掠奪。クヌートは、ノーサンブリアの太守バンバラ(ベバンバーグ)のウートレッドを、自身の側についた有力貴族サーブランドに殺害させました。その後、エイリークはクヌートからノーサンブリアの伯(ノルド語ではヤール)に任ぜられ、死ぬまでその地位にありました。
クヌートはエドマンド剛勇王とイングランドを共同統治していましたが、エドマンド王の急死(自然死説、暗殺説あり)により、単独でイングランドを治めるようになりました。その後彼はよく知られているように、デンマークの王位を兼ね、ノルウェー、スウェーデンの一部を含む北海帝国を樹立し、大王と呼ばれることになるのです。

なお、エイリークは1024年頃、ローマへの巡礼の直前または直後に口蓋垂の切除(中世の医療手術)をした後、出血によって死去したとされています。



エイリークはスヴォルドの海戦後、弟スヴェンと共にあっさりとキリスト教に改宗していますが、信仰心からというより政治的な思惑がありそう。古い宗教にも淡白な印象だし。

エイリーク侯のスカルド詩人ハルドールは〈非キリスト教徒〉と呼ばれているので改宗はしなかったと思われ、彼の作「エイリーク讃歌」には北欧神話でお馴染みの神々や狼が登場します。異教的なケニングを嫌い、ハルフレズにそれを禁じたオーラヴ・トリュグヴァソン王との相違点ですね。


最後に宣伝で恐縮ですが、エイリーク・ホーコナルソンを主人公にした物語を書きました。「オーラヴ・トリュグヴァソンのサガ」を題材に、創作を加えた歴史・時代小説です。

紙の書籍(個人誌)と電子書籍(Kindle)がありますので、よろしければ是非読んでみてください。

紙の書籍(文庫、140ページ)


電子書籍(Kindle版)


主要参考文献

Snorri Sturluson, HEIMSKRINGLA History of the Kings of Norway, Lee M.Hollander (tr.), University of Texas Press, Austin 1991.
Fagrskinna : Kortfattet Norsk Konge-Saga, Peter Andreas Munch og Carl Rikard Unger (ed.), det kongelige norske Frederiks-Universitet, Christiania, 1847.(古アイスランド語、BiblioBazaar による復刻)
スノッリ・ストゥルルソン / 谷口幸男訳 『ヘイムスクリングラ 北欧王朝史(二)』プレスポート・北欧文化通信社、2008年。

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