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逃げ水

逃げ水

空の星
父の背中に
君の心
それは逃げ水

「ーーーいい詩(うた)ね。誰が書いたの?」

不意に背後から聞こえた声に俺は慌てて振り返る。その声には覚えがあった。
「真琴」
夢ノ崎真琴。
長い黒髪を胸元で揃え、前髪は眉の少し上で真一文字を書いている。
大きな黒い瞳に雪色の肌、薔薇のような紅い唇。さながら白雪姫の文面である。

この連日続く猛暑にもかかわらず長袖のブラウスを着て汗ひとつかかず涼しそうな顔をしている。

「聞かなくてもわかるだろ?お前なら」
「あら、貴方は私を全知全能の神みたいに言うのね。それなら、さしずめ天地創造の神は私の母親かしら?」
「茶化すなよ」
真琴はくすくすと笑った。木陰から射した日が疎らに彼女を照らす。まるでキラキラと光る宝石のようである。
「……で?」「ん?」
「本当はわかってるんだろ?まあ、聞くまでもない……」
「綾辻尊」
真琴は長い人差し指を真っ直ぐに伸ばしてこちらを指差して俺の名を呼んだ。その表情はなぜかしたり顔である。
「宿題、じゃないとしたら、新しい曲の歌詞ってところかしら?」
「ご明察」
俺は両腕を上げた。
「珍しいわね。君が恋愛の歌なんて」
「別に、恋愛、ってわけじゃ」
ぼやいた詩に差して意味はなかった。ただ、手に届きそうで届かないもの。茹だる様な暑さの中でふと思い浮かんだだけである。
「そうかしら?手に届きそうで届かないもの、人の心を逃げ水に例えるなんてとても詩的で素敵だと思うわ」
「…….俺、お前に新曲のこと話したか?」
さすがは真琴。と言うべきか。
俺のことはいつもお見通しなのである。
「まさか、君がわかりやすいだけよ」
「心を読むな!」
俺のツッコミに彼女は玉を転がすような笑い声をあげるのだった。

俺たちは当てもなく日差しを避けながら夏の通学路を歩いた。俺はなぜここを歩いているのか思い出せずにいる。
「でも、逃げ水なんて所詮人の目の錯覚だ。どんなに手を伸ばしたって届かない。永遠に」
「……そうね。届いてしまえば、もうそれは『逃げ水』ではないものね。じゃあ、君は叶わない恋を歌いたいの?」
「……そう、なのかな?」
聞いているのは私よ。真琴は頬を膨らませた。まったく、こいつは。
確かに、かつて有名なミュージシャンであった父に届きそうで届かない。そんな挫折や苦悩を歌った歌ではない気がする。
「君は本当に臆病で、恋愛に対して消極的よ。こんなに魅力的なのに」
髪を靡かせてキラキラした大きな瞳がこちらを覗き込む。
蝉の声がやたらと煩い。掻き消される心音。
「ま、万年モテ期の真琴様に言われたって嬉しくねーよ。それに“彼氏にしてはいけない3B”って知らないのか?」
美容師、バーテンダー、そしてバンドマン。
「そういうことは一人前のバンドマンになってから言ったらどうかしら?
……大丈夫、私は知ってるもの。何者でもないただの“綾辻尊”を。
貴方はきっと幸せになるわ。きらめく星にも、あの偉大なお父様の背中にも誰かさんの心にもその手は届く。私が保証するわ」
それは『予言』にも似た美しき少女の歌うような言葉。

彼女にはなんでもお見通しだ。
俺の「本当の気持ち」を除いて。

「ね?」

真っ直ぐに右手が伸ばされた。

俺はそれを握り返そうと手を伸ばす。

「……真琴、俺はーーーーー」

ーーーーーー尊!

聞き慣れた声に意識を覚醒させた。
ひらひらと、目の前で蝶が舞う。

気がつくと俺は真新しい線香の立つ墓の前にいた。


「……え?」
「どうしたんだよ。ぼーっとして」
黒いケースに覆われたベースを担いだ新谷が呆れ顔で頬をペチペチと叩いた。
「気は済んだか?」
「早くリハ行こうぜ」
ドラムの宮地と、ボーカルの真山が俺を呼ぶ。
「夢ノ崎」
目の前の墓石の名を見つめ俺は思い出す。
彼女が、夢ノ崎真琴がもうこの世にいないことを、

真っ黒な羽の蝶はまだ俺の周りを舞うように飛んでいる。

「ほら、届かなかったろ?」

俺はギターを担ぎ直し身を翻した。

それは真夏が見せた白昼夢。