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(ネタバレあり)ジェノサイド犠牲者の名前を呼ぶということ,その意味―ヴァディム・パールマン監督『ペルシャン・レッスン:戦場の教室』レビュー―

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予告映像(YouTube)

ナチスの強制収容所に入れられてしまったユダヤ人青年(ナウエル・ペレーず・ビスカヤート)が,自身をペルシャ人だと偽ってナチス親衛隊将校(ラース・アイディンガー)にデタラメのペルシャ語を教える役割を演じることで生き延びる,という筋書き。実話に基づいているという。

その設定と予告映像で見せられていたものからしてある程度コメディタッチなものかと思っていたが,そこはさすがにナチスを描いた映像,全編を通して重苦しい雰囲気のまま進められる。

かといって,見るも無惨な過激な虐殺シーンがあるというわけでもない。ペルシャ語を教えてくれる青年をひいきにして食事を与える将校,恋愛のいざこざを演じる兵士たちなども描かれる。『ヒトラー:最期の12日間』以降の,「脱悪魔化」された,人間らしさが感じられるナチスの表象がここにもある。

まったくもってデタラメな言語を創出するにあたり何か認知言語学的なアプローチがあるのかと思って期待していたのだが,もちろん(?)そんなことはなかった。そこで繰り広げられるのはドイツ語と1:1対応したペルシャ語の単語のレッスンでしかない。おそらく活用もされていなかったものと思われる。そのシンプルさは観客にとってはわかりやすく,将校とともに(偽りの)ペルシャ語を学んでいくような感覚が得られるし,ユダヤ人青年の立場に立てばその嘘がいつバレるのかというスリルも味わうことができる。

演出としてこだわっているポイントはやはり,ナチス側からユダヤ人たちに向けて個人の名前が意識されることはない,という点だろう。ナチスが彼らの名を意識するのはせいぜい最初に名簿登録するときだけで,それ以降は「ペルシャのやつ」またはたんに「あいつ」「そこ」などの指示語のみで呼ばれる。また,先に記された名簿すらも戦局が悪化すれば燃やして破棄されてしまう。被収容者同士についても同様で,基本的にお互いの名前を呼び合うことがない。

だが主人公のジルだけは,架空のペルシャ語の語源を探すため,配給の際に被収容者ひとりひとりに声をかけ,名前をたずね,復唱する。もちろんその行為は,ジルから彼らへの尊重の現れということではない。あくまでペルシャ語の創造行為を続けて,ひいては自分自身の命をつなぐためのものである。

しかしジルがナチスから解放されたとき,彼は犠牲となった者たちの名をひとりひとり呼んでいく。それまでまったく意識されなかった個人名が,ゆっくりとジルの口から語られ,周りの調査員たちの視線を引いていく。このシーンがもっとも盛り上がる(もちろん,静かな意味で)とことだというのは言うまでもない。

ちなみに,第二次世界大戦中にソ連の強制収容所に収容される体験をした詩人・エッセイストの石原吉郎は,以下のような言葉を残している。

人間が被害においてついに自立できず,ただ集団であるにすぎないときは,その死においても自立することなく,集団のままであるだろう。死においてただ数であるとき,それは絶望そのものである。人は死において,ひとりひとりその名を呼ばれなければならないのだ。

(石原吉郎『望郷と海』1990年,筑摩書房,2頁)

ジェノサイドで犠牲となり「無数」または「多数」としてまとめてカウントされてしまう人びとは,ついに人としての尊厳をもたないまま忘れ去られてしまう。それこそがジェノサイドのもっとも恐ろしい点である。だが人はほんらい,死ぬときに「ひとりひとりその名を呼ばれなければならない」。

ジルというひとりの人が,過程はどうあれ,「無数」の犠牲者をひとりひとりの人格として認識してくれたということは,彼らにとって少しばかりの救いになったことだろう。

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