見出し画像

短編小説「空腹は誰のもの?」

鴨川のほとりに吹く風は、少し寒いくらいだった。

一泊二日の京都旅行、その一泊目の夜のことだ。10月の京都はまだ蒸し暑く、小守はマスクを外してしまいたい衝動にかられた。

「やっぱり男2人で来るところじゃなかったな」

となりで武崎が自嘲気味に言い、小守は少し笑う。薄暗い鴨川の土手には、噂に聞く通りカップルたちが等間隔に並んで、川に向かって座り思い思いのときを過ごしている。見渡す限り、小守らのような男2人連れはここでは珍客のようだ。土曜の夜だったが、行きかう人通りはまばらだった。

武崎はずかずかと土手へ歩を進めると、”等間隔”を無視してカップルたちの間にどさっと腰を下ろした。両脇のカップルは武崎に少し迷惑そうな視線を投げかけるが、すぐに彼らの世界に戻っていく。小守はあわてて後を追い、武崎の隣に腰を下ろした。

本当は、男3人での旅行のはずだった。大学時代、小守らが所属した映画研究会の同期の1人が、就職先で京都に配属され、彼を訪れる算段だった。しかし土壇場でそいつが高熱を出して倒れ、「新幹線も宿も取っちまったしな」ということで急遽2人旅になった。

「良い雰囲気だな」

小守は、ぎょっとして隣に座るかつての同級生を見やった。武崎は暗闇に包まれた川面を無表情に見つめながら、言葉を続ける。

「いかにも、何か出そうだ」

そういう意味か、と得心しながら、内心少し首を傾げた。たしかに通行人はまばらで、街灯は少ないが、土手の上には複数のカップルたちがいる。ロマンティックな空気は漂っていこそすれ、オカルティックな臭いは感じられない。

「そうか?」と小守が反論しても、武崎は無反応のままだった。少しムッとして川面に視線を落とす。

学生時代から武崎は、言うなれば周囲から少し浮いた存在だった。人の話をろくに聞かず、自分のしたい話ばかりをマイペースに語る。今回の旅行も、武崎と2人旅になった時点で、小守はよほど何か理由をつけてキャンセルしようかとも迷ったが、結局は京都への興味が勝った。

それにしても、と小守は、心に浮かんだ感情をそのまま口に出す。

「腹が減ったな」

鴨川の土手に座ってからというもの無性に腹が減る。夜あまり遅くなる前に、何か胃袋に入れたい。そもそも京都に来たのは、うまいものを食べるためだったはずだ。

何か食べに行こうと提案しようとして武崎を見ると、爛々と光る両眼と目が合い面を食らう。武崎が爬虫類のような目で、小守の顔を不思議そうにのぞき込んでいた。

「なんだよ」

「いや。……何を食いたいんだ? 抹茶アイスとか?」

「なんでデザートなんだよ。せっかく京都なんだしさ、ラーメンとかお好み焼きとか、あるだろ」

小守が言うと、武崎は少し思案顔をして、言う。

「……焼肉とか?」

「そうそう、そういうの。そういうの」

武崎にしては良いことを言う、と小守はさっそくスマホを取り出して、このあたりの焼肉屋を調べる。過去に似たような検索ワードを入れた経歴が残っていて、すぐにそれらしいランキングサイトにたどり着いた。過去の自分を褒めてあげたくなる。ランキングサイトで画像を見ていると、どんどん腹が減ってくるのを感じる。

「なあ、応仁の乱ってあるだろ」

ふいに武崎が言い出す。すっかり焼肉に心を奪われている小守は、ああ、と生返事をする。あの歴史のアレだろう、でも、今は乱よりタンの話をしないか?

「1467年から11年にわたって、細川氏と山名氏の間で争われた内乱だ。時の室町幕府は東西に分裂して、日本中で争いが起こった。ただメインの戦場になったのは、ここ京都だ」

武崎がよどみなく話し出す。こいつはこんなに饒舌に話すこともあるのか、と小守は少し感心した。

「内乱がはじまって5年ぐらいで、京都の大半は消失してしまった。例えば国宝になってる東寺の金堂なんかも、そのときに燃え落ちたんだ。今あるのは1603年、ずっとあとの関ヶ原の戦い後に建てられたものだったはずだ」

感心しながらも、小守はだんだん腹が立ってきた。腹が減っていると言ったのだから、何か食べに行こうとなるのが自然ではないか。なぜ歴史の話など始めたのだろう。

「なあ、そんなんいいからさ、飯食いに行こうぜ」

言うと、武崎は億劫そうに上着のポケットをあさると、一枚の板ガムを取り出した。

「これでも食えよ」

小守は彼の態度に少しムッとしながらも、受け取る。黒いパッケージの、息がすっきりするタイプのガムだった。小さく礼を言うと、「たまたま持ってただけだ」と武崎は川面に向き直り、話を再開した。

「応仁の乱のあとで、地方の職人が集まってきて京都の復興が始まった。だがそれもまたすぐに水泡に帰してしまうんだ。1536年に比叡山延暦寺の僧兵たちが大挙してやってきて、対立している寺社を焼き払った。その火が延焼して、京都は応仁の乱のとき以上のダメージを受けてしまった」

小守は、川の向こうに横たわる京都の町へ目を向ける。夜の闇に静かに横たわる町並みに、500年前の戦乱のあとは見て取れない。通りすがる若者の、ことさら大きな笑い声が静かな河原に響き渡った。

「そのあとも細川だ三好だと京都を実効支配する勢力はころころ変わってな。時の権力者であるはずの幕府の将軍も、天子もいるというのに、京都の治安は最悪だったんだ」

武崎からもらったガムの味は、嚙み始めてすぐに消え去ってしまった。味がないガムを噛んでいると、紛らわせていた空腹が首をもたげてくるのを感じる。

いや、空腹感は、さっきよりもひどくなっていた。さっさと何か食べたい。カルビを焼いて、タレをたっぷりとつけ、白米と一緒に掻き込みたい。

そんなことを考えたせいか、喉も乾いてきた。鞄からペットボトルのお茶を取り出し、飲もうとして、口の中にガムがあることを思い出す。

ガムを吐き出そうと先ほど剝いだばかりの包み紙を探す。が、なぜか見つからない。上着のポケットをまさぐっていると、武崎が興味なさげにこっちを見てくる。

「ガムを出すなら、ズボンの尻ポケットにレシートがあるだろう」

レシート? 言われて立ち上がり、尻ポケットに手を入れると、確かにレシートが出てきた。ずいぶん長いレシートだ。何の店でもらったものだったのか気になったが、それよりも喉の渇きがひどくなっていた。

ガムをレシートに出して、丸める。すぐに喉を鳴らしてお茶を飲む。むせそうになり、せき込んでしまう。

「どこまで話したっけな。そうだ、京都の治安だ」

武崎は、むせ返してせき込む小守を横目に、また語り始めた。小守はだんだんと、このマイペースな友人への苛立ちが増していくのを感じた。喉が潤うと、空腹はますます酷くなる。それを小守はしきりに訴えているというのに、この男は歴史の話をしてばかりだ。続きは飯屋でしてもいいだろう、と小守が提案したが、武崎はそれが聞こえないかのように淡々と話を続けた。

「裕福な町民や貴族なんかは、自分と財産を守るためにどんどん自治・自衛を進めていった。屋敷はもう要塞みたいになってな、武装した連中が立てこもって生活してたわけだ。財産があるものは、その財産を使って身を守っていたんだ。だが、皆がみんなそうできたわけじゃない」

強い風が吹いて、土手の草がざわざわと揺れる。

「当然、そんな時代だと生活に困るやつらも大勢出てくる。住む家もなくなって、食うものも無くて、乞食になった人たちがあふれかえったんだ。そんな連中がどこに集まったと思う?」

武崎は、足元の小石を拾い上げると、座ったまま川面に放り投げた。

「ここだよ。鴨川の河川敷だ」

小石は暗闇に吸い込まれていった。水面を叩く音は不思議と聞こえてこなかった。

「大勢の人がここで亡くなった。死因は餓死だ。鴨川沿いに積みあがる餓死者の死体は、京都の名物とすら言われていたぐらいなんだ」

小守は、急に周りの空気が冷え込むのを感じる。周りにいたはずのカップルたちの声が、遠ざかっていくような感覚に陥る。

「なあ、小守。腹が減ったんだったな」

武崎が小守の顔を覗き込んでくる。

「俺たちは、さっきまでどこにいた?」

小守の額に冷や汗が浮かんだ。鴨川のほとりに来る直前の記憶が、もやがかかったように思い出せない。

「思い出せよ。さっきのガムは?」

武崎が差し出したガム。あれは、会計後にレジでもらったものだ。会計……? そうだ、長いレシート、あれは確か……。

あわてて、ガムを包んだレシートを取り出す。苦労しながら広げると、店名が読み取れた。「京都 焼肉」の検索画面に出てきた焼肉店の名前だった。

そうだ、ついさっきまで俺たちは――

「お前のその空腹感は、誰のものだ?」

急に、霧が晴れたようにすべての記憶が戻ってきた。さっきまで小守と武崎は、すぐ近くの焼肉店にいて、肉と米と酒をふんだんに胃袋に詰め込んでいた。満腹感に苦しむ小守に、武崎が川面で涼むことを提案して、カップルばかりの土手に行くことを小守が嫌がる一悶着などがあって、ここに至ったのだ。

先ほどまで痛いほどに感じていた空腹感が、嘘のように消えている。代わりにあるのは食べた分にきっちり見合った満腹感と、背筋を走るうすら寒い感覚だった。

暗い水面に目を向ける。何か恐ろしいものが見つめ返してきているような気がして、小守は思わず目をそらした。

「俺はまだ食えるぞ。抹茶アイスでも食べに行こうか」

武崎が立ち上がり、すたすたと町に向かって歩き出す。小守は遠ざかる友人の背中を見つめたまま、しばらく立ち上がることができなかった。

(終)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?