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精神疾患が薬だけでは治らない理由

結論から先に述べると、精神疾患とは関係性の病だからである。ここでいう関係性とは、対人関係性や、個人が集まってできた社会に対する関係性である。薬で正常だと思われる脳内物質状態に近づけたとしても、対人関係における思い込みは改善されておらず、その結果再発してしまうだろう。個人の集合体である社会的組織に参画しようとしたときにも、やはりこの病的な歪みは、参画への円滑さを妨げる大きな要因の一つになるだろう。

精神疾患とは生活習慣による病なのである。個人的に積み上げてきた人間に対する自動的な思考と、それに付随する身体的な症状とを徹底的に自覚化しない限りは改善に向かうことは難しいし、自覚したとてやはり難しい。

ただこの、自覚していない状態で症状と戦う場合と、自覚したうえで症状との対決へと移る場合では、治療の成果が異なるはずである。

霧の中で、誰が敵で、誰が味方であるかわからずにやみくもに剣をふるって戦う場合と、誰が敵で誰が味方であるかが明確で、その敵に対する有効な攻撃手段がないことは、一つ二つ段階が異なる戦いのはずである。

精神の病に苦しむ人を救おうと思えば、薬物治療と、対人関係全般のコミュニケーションと思い込みの徹底的自覚化の両輪がそろっていなければ、無駄な徒労に終わるだろう。

思い込みの想像には個人的な歴史的経緯があるので、それらを踏まえず、一方的正義による、神のような視点からの介入は、患者の実感からの反発を受けることになるだろう。徹底的な、患者も治療者も疲弊するような対話の後に、治療の成果はやってくるのだろう。

しかしながら精神疾患は、そうした基本的原則を飛び越え、超法規的措置のような、過激と囚われかねない介入を必要とする場面もあることは確か。

どこからそうした強制的介入を必要とするのかを吟味、検討するのも一つ大事な仕事である。これは医療関係者だけではなく、患者本人もその知識があるとよいはずだ。ここはもう限界を超えていると自覚があれば、大事に至らず治療へつながることができる。

治療者と患者の立場が混同した奇怪な文章になったが、ようは病める人が心の中に治療者を構築することが可能ならば、自力救済が可能になる。そういった私の思想を、精神疾患に対する治療方針的なマニュアルの中にねじ込んでみたのである。

一体全体どこの立場から何を言いたかったのか、自分自身も困惑して記事を終える。

ちなみに自分は精神疾患当事者で、自身の病に自分自身でどう立ち向かうかを考えながら書いた。まあ出来上がったのは、医学マニュアル的で新しさを感じないようなもんだったが、堅実に効果が見込めるのはいつだって目新しさのないものである。

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