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メモ 宮台真司関係 私たちはどこから来てどこへ行くのか

70年代後半に始まった新新宗教ブーム。
新新宗教ブームと並行して拡大した自己啓発セミナーのブーム。
もともとは米国でアウェアネストレーニングと呼ばれていたもの。
宮台が最初にかかわったのは大学院生修士の82年。日本に入ってきたのが70年代末だからそれから間もないころ。

※日本では仏教や神道、キリスト教などの伝統宗教(既成宗教)に対して、明治期以降に活動を活発化させた新しい宗教団体を新宗教(新興宗教)と区別するのが一般的で、さらに、おもに1970年代以降に出現したものを新新宗教と呼んだりしているが、その定義は曖昧模糊としている。

僕の世代、つまり1960年前後に生まれた新人類世代は、アウェアネス・トレーニングに最もハマった層です。アウェアネス・トレーニングの目標は変性意識状態下で潜在意識を書き換えることですが、これは洗脳の基本技法です。特に変性意識状態を導入する方法や潜在意識を書き換える方法が、直ちに同時代の新新宗教に取り入れられていきました。例えば、オウム真理教の教祖、朝原彰晃のコミュニケーションは、当時陸続きと出てきたアウェアネス・トレーニングを取り入れた新新宗教の流れの上にそのまま位置付けられます。

「洗脳」と言いましたが、トレーニングの歴史を中立的に振り返ります。ルーツはヒューマンポテンシャルムーブメントです。これは伝統的心理学やエンカウンター的心理学の後に出てきた第3勢力としての、マズローの人間性心理学やパールズのゲシュタルト療法やバーンの交流分析などを束ねた心理療法運動でした。背景には、公民権運動や感染運動やヒッピー運動を含む西海岸的カウンターカルチャーや、これらと結びついたベトナム帰還兵の心の傷を癒して社会復帰させるカウンセリングニーズへの対応がありました。

この運動を背景に、アレクサンダー・エベレットがマインド・ダイナミックスを設立し、枝分かれして各国に広がったのがアウェアネス・トレーニングです。流派は多様ですが、どれも変性意識下での潜在意識の書き換えを目的とします。書き換えはファン・ヘネプの通過儀礼図式に従えば、離陸、混沌、着陸の3段階をシミュレートする形でなされますが、そうした潜在意識書き換えプログラムを設計した目的は、社会化、脱社会化、再社会化という3段階の3段階目を守備よく実現することにありました。

兵士の社会復帰を考えます。地上戦の兵士にはどこの国でも地獄の特訓がなされます。目的は脱社会化です。地上戦に社会性を持ち込むと戦えないので、変性意識状態下で潜在意識を書き換え、達成された社会化をキャンセルします。しかし、脱社会的存在が社会に帰還すれば問題を起こします。だから再社会化が必要です。脱社会的存在を社会化された状態に復帰させるのです。再社会化は変性意識状態下で書き換えられた潜在意識状態を変性意識下で書き戻す形を取ります。変性意識状態下で書き換えや書き戻しを受ける等の潜在意識は、流派によってゲシュタルト、フレーム、スクリプト、ストーリー、神経言語プログラムなどと呼ばれます。

僕自身はいくつかの流派のトレーニングを受けていますが、中身は大差ありません。僕がこうした訓練を受けたことと、ナンパ師を経てフィールドワーカーになったことの間には、もちろん関係があります。アウェアネス・トレーニングによってショートスパンでのフレームの書き換えがある程度自由になるからです。一般に人は、状況カテゴリーの認知×人間カテゴリーの認知=行動カテゴリーの指令という指令プログラムで動きます。困難な状況でも「男なら泣くな」みたいなものです。大抵は過去に刷り込まれたものです。状況カテゴリーと人間カテゴリーを自在に書き換えられれば、人間は従来の指令プログラムから自由になります。

よく用いられるのは、自分を仮の姿だと思うことで、真の姿に由来する拘束から逃れることです。しかし、普通の人はそんなに自在に思うことはできません。そこでテクネを使います。

1980年代に整備された神経言語プログラミング(NLP)の手法では、アンカー・トリガーの結合を潜在意識に人為的に埋め込みます。これを自分自身に用いる場合、左手の親指を握ると力のモード、人差し指を握ると滑稽のモード、中指を握ると酩酊のモード、薬指を握ると愛のモード、小指を握ると幼児のモードに瞬間的に入れるようにしておくといった仕方が典型です。このNLP的なやり方で、状況カテゴリーと自分の人間カテゴリーを自由自在にコントロールできるようにしておくわけです。


「萎縮問題」ってもう少し根が深いんですね。単純に言うと、日本の言論って、今に始まった問題ではないけれど、ポジション取りのための浅ましくさもしい戦略に過ぎないというケースがとても多いんですね。ぼくは「鍋パーティー問題」と呼んでますけど、「自分はエリートだ、卵だ」と思っていたけれど、例えば東大に入って、「自分はただの人、寂しい、同じ東大でも楽器がプロっぽかったりスポーツがすごい人がいっぱいいる、演劇をやっている人、映画を作っている人が山のようにいる…」そういうすごい人を見て自尊心が挫かれたところに、週末鍋パーティーに誘われる。
気がついたらそう言うのがセクトだったりカルトだったりするんだけれど、せっかく、やっと獲得したホームベースを失いたくないから、そのホームベースの「教義」やイデオロギーに適応していく、ということが起こるんですね。まぁ、原理研周りで活動していた時に、本当にそういうことをつくづく見ました。「つくづく見た」っていうのも変だけれど、日本の言論っていうのは、いいですか、別に統一教会のフロント団体や原理研究会だけではなくて、どこもかしこもそうなんだろうなと。安倍晋三氏は自民党が下野した頃に政治家になるわけだけれど、その時は完全なノンポリ。でも、孤独で、簡単に言うとプライドが高いけれどプライドを裏打ちするような自己価値の感覚がない。そこに、鍋パーティー問題と同じで、座布団を提供してくれる存在がいるからあっという間にその座布団の色に染まっていく。そういうことだと思います。別に安倍晋三氏をディスっているわけではなくて、いわゆる「高名な言論人」の多くも、あるいはテレビでコメンテーターだ批評家だ評論家だと言っている人の多くも、そういうものなんですね。それをぼくは、近代の価値から見た場合の、日本人の劣等性と呼んでいます。つまり価値を貫徹する構えよりも、自分の居心地の良い場所に学習的に適応する。
さて、言論がありますよね、言論の界隈があって言論人がいます。「そのなかに本物はどれだけ居るんだろうか?」この感覚は、みなさん日本人なら持っているはずですよ。つまり、「所詮日本人はその程度のものだ」と多くの方が思っているはずです。だから、例えばぼくが暴力にビビって発言の色を変えるとか、トーンを変えることがあったら、「なんだ、結局言論界と言ったって、浅ましくさもしいヘタレがポジション取りしているだけだろ」やっぱり思われてしまうんですよね。それは嫌だとぼくは思います。
単に朝日新聞に入ったから朝日新聞的になってる奴とか、産経新聞に入ったから産経新聞的になってる奴とか、ゴミのようにわんさかいる訳ですよ。何度も言うけれどこれは別に朝日新聞や産経新聞をディスっているわけではなくて、我々の言論の界隈ってほとんどの場合そういうものだった、ということです。そうじゃない言論人、人間たちが作る言論の界隈だってあるんだ、ということに希望を持っていただきたい、そういう強い意思があります。


分断されて孤立した者を相手とする「感情の釣り」は容易。僕は「鍋パーティ手法」として記述してきた。それで「インチキ仲間」に居場所を定めたがゆえに認知的整合化を始めた者に、今度はアウェアネストレーニング(僕は80年から参加─苫米地英人氏と多分同時期)的洗脳手法で奇異なフレームを書き込む。

単なる憶測ではない。東大入学後まもない頃から、原理研(統一教会の学生フロント団体)に入った語学クラスの学友らを奪還する困難な活動に関わって、肌身に沁みる形で獲得した認識だ。昨今、巷ではカルト側からのプル要因だけが焦点化されるが、入信側からのプッシュ要因の検討が足りなすぎる。

オウムや統一教会を含めてカルトが80年代後半に急成長した事実が重要。そう、新住民化問題だ。コールしてもレスポンスしない家族・地域・行政(学校)──当時の宮台は日本的学校化と表現した──ゆえに孤立した者たちに、カルトだけがレスポンスする形になった。

「個人的自力救済」と「共同体的自力救済」がありますが、前者は無差別殺傷に向かいかねないため、残された道は後者しかない。 by宮台

アウェアネス・トレーニングのアドバンスド・コースは、ほぼ例外なく、意味のないプライドを、気絶するくらいまで、徹底的に叩き潰すことから始まりました。でも、その意味を深く理解している人は、あまりいませんでしたね。今は全く不可能なセッションです。

プル要因とは、ある行動を人に起こさせる外的な要因のことです。たとえば、旅行においては、テレビで見た美しい風景や、本で読んだ世界遺産の解説文、アニメ映画の舞台となった実在の場所などの情報がプル要因となります。

人格形成のメカニズム。遺伝要因と環境要因。
学習機能を有した存在として誕生。
体験を記憶として蓄積。
過去の体験の参照。
体験とは、固有の場面における自身の思考、感情、行動、症状などの
人格を自在に変更することは可能か? 人格が一定の方向性を持つのはなぜ? 一定の方向性を変えることは可能?

参考文献 私たちはどこから来てどこへ行くのか


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