物事を軽やかにシンプルに楽しみたい話

いつもイベントごととかに際して好きなもの楽しいものについてだけ書いてるnoteなんだけど、頭をよぎっては書かずにいる自分の感情についてどこかで表明しておくのが誠実さな気がするので書いておく。

インターネットをしていてシンプルに楽しむことの難しさを感じる3つの瞬間についての話。

1つ目は流行りものをシンプルに楽しむ難しさの話。
2つ目は推し活をシンプルに楽しむのが難しさの話。
3つ目はシンプルな感想を綴る難しさの話。

1.流行り物をシンプルに楽しみたい

流行り物に逆張りしたがる年頃を通過し、今は順張りも逆張りもせずに純粋に気になったものに触れてみることにしてる。
流行ってるものは経済ぢからもすごいのでイベントだったりグッズだったりとお金や時間を使うことでさらに楽しめる機会も増えて、コンプ欲さえ抑えられれば自分で選択しただけのお金と時間の分だけさらに楽しめるのがとても良い。

ただ流行り物には流行り物特有のノイズもあって、どうしても自分の解釈だったり楽しみ方のスタイルにもバズが付きまっとてしまうところがある。
ちょっと極端なキャラ付けがバズっていて自分とは少し違っていたり、そのコンテンツにお金や時間をたくさん使ってるオタクの方が"えらい"という価値観が形成されていったり、考察をして"答えを当てる"楽しみ方で世の中が一色になっていたり、例えばそんな感じ。

別に気にしなければいいんだけどね。
同じ映画10回見てる人がいて、自分は1回しか見てないからって、自分の"好き"が小さくなるわけじゃないんだからさ。
でもそういう世の中の空気を無視してコンテンツに対して自分なりの楽しみ方と距離感でいるのに疲れることが時々ある。

名前は知ってるけど触れたことのなかった古い名作映画を最近よくサブスクで見るんだけど、世間の空気感がノイズにならなくて、なんだかとても気楽に楽しめるところがある。

でもそんなことおくびにも出さずにすべてをシンプルに楽しみたい。

2.推し活をシンプルに楽しみたい

映画やアニメやゲームのオタクやってる時はあまり関係ないんだけど、ミュージシャンとかVTuberとかプロゲーマーを追っていて認知されたいという欲求が自分の中にあるんじゃないかと疑いたくなる時がある。

僕の個人的な信条としては、推しが楽しくその人らしく活躍する様を応援することが推すことの唯一の目的であるべきで、そこに自分とその推しとの個人的な距離感や関係性への欲求を持ち込みたくないと思っている。

より正確に言うと認知されるかどうかは最終的な問題ではなくて、「自分がどう見られたい/思われたい」という欲求がこもった恣意的な言葉を綴るのは客観的に見て醜いし、書いてる自分もつまらない。

まして他人をコントロールしようとする言葉なんてあまりにも品がないと思うので、楽しいと思ったことをシンプルな言葉にしていきたい。

3.感想をシンプルに語りたい

インターネットなにかコンテンツについて書くと気軽に「作者巡回済み」になる時代だ。
マンガが面白かったとpostしたらエゴサで作者からファボられて「チラ裏の感想ノリじゃなくてちゃんとファンレターみたいなノリで書かなきゃダメだった?」って気まずくなる経験は一度や二度ではない。

でもこれって現場との距離の問題な気もするんだよなー。

例えばディズニーランドでミッキーの着ぐるみを前にして中に人が入ってる話をするのはただのつまらない人だけど、帰りの電車で「ミッキーの演者さんすごかったねぇ」というのはおかしなことではないと思う。

じゃあこのnoteはどんな距離なの?って考えると、イベントレポなんかは本人がエゴサで辿り着く可能性を考えると"現場"のノリで書くべきだとも思うし、"現場"から十分に距離があるのだから一歩引いたノリで書いても別に悪くないような気もする。わからない。

読んだ人がどう思うかを考えて書くのは当たり前のことではあるんだけど、読む相手のことを意識することはさっき書いた「読んだ人にどう思われたいか」との表裏一体でもあるので難しい。

誰に読まれても困らないけど嘘偽りなく感じたことをシンプルに書けるような人間になりたいね。


しばらく前から何度も推敲していた文章なんだけど、名取さなさんの『いっかい書いてさようなら』という曲の歌詞がこの内容となぜかとてもシンクロしているような気がして少し驚いたという話を付け加えておきます。

https://nex-tone.link/A00138896

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