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短歌の蛇口 第2回

【今回取り上げた歌】
○ あやうさはひとをきれいにみせるから木洩れ日で穴だらけの腕だ/安田茜「叫声」『西瓜』
○ どの舌も這うたび肌は焼けていたずっと心は焼跡なのに/坂井ユリ「おもき光源」『歌壇』2020年2月号
○ 藤が人語を初めて話すときそれは垂れるように不完全だった/丸田洋渡「FRIENDS
○ おそらく水がたまるのだろう裏口に親指ほどの苔のかたまり/小田島了「水のほつれ」『うたとポルスカ
○ 「やがてかなしき」と下につければ風景みんな歌になるではないか/高瀬一誌「手」『スミレ幼稚園』


あやうさはひとをきれいにみせるから木洩れ日で穴だらけの腕だ/安田茜「叫声」『西瓜』


田島:最近出た「西瓜」という同人誌の連作、安田茜さんの「叫声」から。『西瓜』は江戸雪さんを中心とした関西の同人誌ですね。
本が届いた瞬間に安田さんのページをめくり、最初のこの歌があり、「ヤッター!」という気持ちになりました。見立ての歌ですね。「あやうさはひとをきれいにみせるから」の「から」はちょっとわからないな。「木洩れ日で穴だらけの腕だ」は、木洩れ日の下に人がいて、その人の腕に影が映っている。何気ない情景だけど、銃弾でその人が撃たれたみたいな恐ろしげな光景に見えるという見立てのおもしろさかな。
この連作の最後の歌も面白くて、〈爪たてた痕ではなくて月でした叫声にふりむいて見たのは〉の、「痕ではなくて月でした」にも見立てというか、跡ではなくて月というすりかえが出てくる。
安田さんの昔の歌で好きな〈円卓に小さな蝋燭をともしてそこからがありありと晩冬だ〉、ちょっとレトリックは違いますけど、蝋燭によって晩冬がやってくるみたいな、なにかを媒介して別のものがある感じ。こういう不思議さがすごく魅力的だなと思います。安田さんの歌について、みなさんはいかがでしょうか。
橋爪:そうですね、「木洩れ日で穴だらけの腕だ」って穴は開いてないけどたしかに穴に見えると言えば見えて、その発見っていうのとはちょっと違うけど、そのぎょっとする感じ、言葉でぎょっとさせてくる感じですよね。実際木洩れ日が映った腕を、例えば写真を撮ってその写真を見せても、人は木洩れ日だって思うだけなんですけど、「穴だらけ」って書く言葉の力によって危うさを出しているという感じがしましたね。で、「あやうさはひとをきれいにみせる」っていう現状を言って、それを「から」でつないで、「木洩れ日で穴だらけの腕だ」って言ってるっていうのは確かに同意かなと言う感じです。言葉の力をすごく感じます。「穴だらけ」って言葉によって立っている歌かなという感じがします。「あやうさはひとをきれいにみせる」っていう共感で立っている歌ではないじゃないですか。だから、言葉の力、すごいな、って思います。
牛尾:安田さんの歌、景と心情のいろいろな付け方はあるにしても、それを結んでいる因果関係とかは結構謎だったりすることが多くて、「実景派」的な材料を使いつつ、歌が訴えかけてくる仕方は、何か違うところーー「言葉派」っぽいところから来る、みたいな印象を受けています。この歌の「から」も、別に因果関係じゃないではないですか。
田島:この「から」って謎なんですよね。「木洩れ日で穴だらけの腕」というのはたしかにあやういところはあるんだけれど、みせる「から」順接で「穴だらけ」というわけでは別にない。
橋爪:なんか無理やり補足を書くのであれば、「あやうさはひとをきれいにみせると言われているから木洩れ日で穴だらけの腕ということにした」という感じにできるのかな。
牛尾:ああ……なるほど?
橋爪:いや、ちょっと違うかな?わかんないです。
牛尾:いや、語彙から拾ってきて線を引こうとしたらそうなるのは分かる、が……。この歌からやってくるものはほんとうにそういうことなのかというと違う感じがする、みたいな。
橋爪:そう、なんか違うんですよね。この強引な「から」は短歌的な「から」なのかな、みたいな。短歌の中で行われるマジック、接続マジック的なのってあるじゃないですか。それを使っているのだろうか。
田島:そうですね、この「から」を流しちゃうのって、文法的な意味の負荷を軽くさせているからのかな。流しちゃうんですよね。「から」……。「から」……?
「言葉派」の話がありましたけど、安田さんの歌にはまだまだ好きなのがあって、〈感情はがらくただよね ひだまりの蓮をゆめみてはしるバスたち〉。蓮から連想されたバス、バスから連想された蓮。言葉としてつながっているんだけど、光景としての「バス」が道にぽつぽつとある光景と、「蓮」が池にぽつぽつある光景が急に結ばれてしまう。「言葉」をキーにしてみるとわかる感じがしました。景を何かに喩えることがすごく上手で、それゆえに魅力的に見えるのかなと思っていたんですが、「言葉」をこのように使っているとなると、ちょっと見え方が変わってくるんじゃないかと思いました。
牛尾:今までも、安田さんの歌って、つぶやき実景のルートで読もうとすると読めないなみたいなことがあったような気がして。だから連作で並んでいると、こう……別にルート書いてたりしない歌なんだなってことが分かりやすくなる気がする。
田島:この歌の理屈に特に納得はしないんだけれど、わかってしまうのがおもしろいのかなと思います。「あやうさはひとをきれいにみせる」ってのも、そうかなあ? って思うんですよね。儚さや恐ろしさがその人にあるということが、人をきれいにみせる、ということかなあと一旦は思って、下の句を読んで「ああ、この様子がきれいに見えるし、穴だらけという風に喩えられるあやうさなのか」とも思う。でも、それ以上に言葉がすごいくっつき方をしているな、というところに楽しくなってしまう。すごく納得するわけでもないのに。不思議なんですよね。
橋爪:やっぱ「穴だらけ」という言葉を使った独自性、木洩れ日を穴にたとえた点で、勝ちにいってる歌かなあとも思うんですが、なんだろうな……「から」はやっぱ「短歌マジック」な気がする~……。名詞の意味をどこまでも拡散させていって意味なきものにさせてしまうみたいな新感覚の「言葉派」みたいな人はいると思うんですけど、これは接続の「から」をそうさせているという点で……。うーん
牛尾:接続の言葉をよくわからなくさせてしまうのを「短歌マジック」と思ってしまうのはわかります。でもそれは伝統的にあったものではないでしょうか。だから、「を」とか「と」とか――「と」は塚本の「と」ですが――そこまで攻撃的な形じゃなくても、まあ、こう、なじみのある文型のような……。
橋爪:他の例歌がぱっと思いつかないから何とも言えないですけどね。でも、他にも使われてるんだと思います。こう、印象をうすーくする、「から」だけ薄い鉛筆で書かれたように見せさせる、みたいなの。ある気がするんだよなあ。
田島:古典的な技術にそういうものがある気がするのはわかります。


どの舌も這うたび肌は焼けていたずっと心は焼跡なのに/坂井ユリ「おもき光源」『歌壇』2020年2月号

田島:坂井さんのめちゃくちゃすごい連作「おもき光源」ですね。榊原紘さんがこちらで詳しい解説ブログを書いてらっしゃいます。解説ブログでは、連作全体として慰安婦問題を取り扱っていて、社会的なことを過度に象徴化せず、自分と自分の身体に引き寄せて歌うことを成し遂げたているのではないかという話をしていますね。自分の肉体に引き寄せることについても触れています。この歌も連作の流れから、性暴力を受けていた女性に心寄せしていて、実際の性暴力以上に心の「焼跡」に注目している。
坂井さんの技術のすばらしさについてはすでに語った気もしますが、橋爪さんの取り上げた連作とは違う連作です。取り扱っている主題がすごく重くて、象徴的にしすぎたらテーマに寄りすぎてしまうんですけど、そこを自分の心寄せに向かっていってるのがすごい。
心寄せをして自分が相手にのりうつり、そのときのその人の心情を代弁するかのように語るというやり方ですね。歴史的な主題を扱うとき、他にもものすごく客観的に語るとかいろいろな手法がある。自分が経験したかのように表現するという方法もあるけど、でも「当事者」じゃないのにどうなんだという倫理的な葛藤もありますよね。
この連作の場合は、心寄せをするけれども相手とは違いがある。第二次世界大戦後の日本と韓国だからということもあり、自分にもまた人間として加害的な一面もあることや、もっと別の心情的な面でも違いがあり、実際に憑依はできない。自分とこの人たちが違うということも含めて語るというのが、多分すごくバランスのいいところですね。逆にこの歌はかなり心を寄せている歌なんですよね。寄せている歌でここまでぐっと入るのがすごいなと思う。上の句が特にすごいなと思いますね。
橋爪さんの取り上げた歌で、坂井さんの比喩のうまさという話を、比喩するものというのが心情とかそのときの心とかに向かっていく、焦点が合っていくというのが坂井さんの特徴的なところかなとも思いました。この歌にも「心」という言葉は出てきますが、心と身体というものがすごくくっついている感じなのかな、そこも特徴なのかなと思っています。
牛尾:そうですね……わたしこっちの坂井さんの歌は、第一回で扱った歌みたいな焦点を合わせてドカンという感じじゃないほう――文体の密度をギュッってするほうかな、って思いました。
これって連作の位置的に、女の人に心寄せしてるところの歌じゃないですか。この歌とてもよい歌だと思っていて、こう、主客の関係みたいなのが不思議な状態になってますよね。つまり誰の舌が誰の肌を這っていたのかというのがあまりわからない構造になっている。いや、どうだろう、わたしがわからなかっただけでみなさんわかります?
橋爪:いや……わかんないですわたしも……うーん何ていうんだろう。
牛尾:舌が肌を這っているというそこの部分だけにクローズアップされる気がして。
橋爪:うん。
牛尾:連作においてこの歌は、紙袋をかぶせられたひとや女性に心寄せしている流れの上にあるものなので、この主客の分からなさがとてもいい感じに作用していると思うんですよね。
橋爪:舌と這われている肌だけがクローズアップされていて、カメラがそこだけを撮っているという状態? ということですよね。そのカメラのすべりみたいなのがあるからこそ、心というものにジャンプアップできるんじゃないかというのがあります。
田島:構造としては、舌というすごく小さなものから、舌が触れているもの、広くなっていって心の焼跡へと大きくなっていく作りですよね。
牛尾:連作全体の、こういう主題の扱いについて言うと、第三者に心寄せするのってすごく難しいことで。だからそれは、「テレビで見た誰かの話を読むわたし」、「わたしが直接観測した誰かの話」になるパターンとか、あるいは斉藤斎藤さんみたいにゴリゴリ引用していって、他の奴の言葉をアイロニカルに出してくるパターンとか。そして坂井さんのこの「おもき光源」とか、大森さんとかのような、歌の中で主客を渾然一体にするやり方もあるのかなって思っていて。わたしはアイロニーも好きですが、この、特定の誰かだけの領域を超えるような仕方で感情とか動作が描かれるのがすごいなあと思って。
田島:社会的なことへの怒りを主題にすることができるのがすごいなと思います。なぜかというと、私が自分の歌をつくるときに実際の社会の話をもっと直接言ったほうがいいんじゃないかと思うからなんですけど。直接乗せるとスローガンとかプロパガンダ的なものになってしまう課題があるなかで、比喩という手段や引用という手段がある。この連作はその比喩という手段の成功例のように思います。いや~難しいですが……。
牛尾:私は例えば川野芽生さんの『Lilith』は比喩の成功例だと思っていて、坂井さんのこの連作や大森さんは比喩をやってないわけじゃないけど、自他の不分明さみたいなことの方がが大きなポイントになっているのではと感じています。『Lilith』では「わたし」はずっと「わたし」として世界を見ているから。
田島:うーん確かに。川野さんとはまた違う。さっき技術の話をしましたけれど、技術があればそんなところまでいけるのかという気持ちにはなりました。
橋爪:確かな技術が重いテーマをうまく扱うための力になっているというのは本当にそうだというか。技術っていいなあ。
田島:もっと新しいものをいっぱい見たいという気持ちと、これまでの技術とは違う技術というのがいつか発明されるんじゃないかっていう希望があったわけですが、技術をもってすれば、これまでの歴史的な蓄積で今の主題を扱えるということもあるんだな。それは多分すごく意味のあることなんですよね。でも、じゃあ自分がやっていることは新聞歌壇とどう違うんだ、と言われたら困る部分もあるんですけど、その、時事的なことを詠みこんでいくことは。
牛尾:でもそもそも、時事的だったりなにかしら重めの主題をやるなら連作のほうが向いてるんじゃない? っていうことも思ってしまう。
田島:たしかに。みなさんはこういうことをやってみようという気になったりしますか。
橋爪:うーん、今のところわたしの仕事ではないなと思ってはいるけど……。でも、仕事って、なんなんだろうね! っていう。……わたし、技術とかないしなあ、みたいな気持ちになってきた。
牛尾:わたしは「うたとポルスカ」に出したやつと「川柳スパイラル」に出したやつと「羽根と根」10号に出る予定のやつとかをいまの自分にできる自分の仕事のつもりにしていて、こういう何かを続けた先に自分の耕地があるのかなあ、という気持ち?
田島:主題に向き合ってみたいけれど、私は一体どうやってやったらいいんだろうと思いながらやっている状態なんですよね。まあ、こういう手段があるんだなあという気持ちです。さまざまな試行錯誤の結果、さまざまな手段が発明されるんでしょうが。
牛尾:結局好きなものを追いかけることになるのではないか、という気持ちはあって。この分野でわたしが好きなのはアイロニーとか北山あさひとかかなあ。あと瀬戸夏子に満ちてる怒りの感じ。まあ、好きなものを追いかけるとか言ってみましたけど、もともとのわたしの歌が出発地点になるわけなので、あれらになれるわけではきっとないんですけどね。
田島:そうなんだよなあ。わたしが坂井さんの歌を気になるのは多分そういうことで、それをできるかもしれないという可能性を見ているからなんですけど。というわけで最近は比喩にちょっと興味があります。


藤が人語を初めて話すときそれは垂れるように不完全だった/丸田洋渡「FRIENDS

田島:この歌と丸田さんの連作の話をしたくて取り上げました。咲いている藤が人間の言葉を話すとしたらという仮定のはずが、実際に話したのだ、という話ですね。「垂れるように不完全だった」は藤がだらだらっと垂れているような感じで話していて、その話し方は「不完全だった」という。
「不完全だった」というのが不思議で、どういう評価なのかわかんないんですけど、藤が話すなら「垂れるような人語」なのはすごいわかる。藤が垂れている光景でいきなり説得されてしまう。藤が人の言葉を喋るということを藤の形で説得されてしまうというのはちょっと面白かったです。
他にも気になった歌は、〈光るなら夜に おとなしい友だちが蛍のように椅子に座った〉。これも同じ連作の近いところにある歌です。「光るなら夜に」のあとに一字空けがありますが、ちょっと下の句にかかってきて、「おとなしい友だち」は多分夜になったら光るんですよね。夜じゃないときに光るのはあまりよくないから、おとなしくない人は昼でも光るけど、おとなしい友だちだから光らないで椅子に座ってるという謎の論理がある。
謎の論理がこの世界では通用しております、というちょっとぬけぬけとした感じがおもしろいですね。笑っちゃうおもしろさがぬけぬけと連作で続いていくのが、おもしろいですよね。
牛尾:この連作世界で通じる独自ルールみたいなのがあって、「いや、これルールだしみんな知ってますよ」って言われて、読者の我々は「あ、はい、わかりました……」という感じにさせられている気がする。
橋爪:たしかに、新しい何かを提示されて、そこに説得力があるからぐうの音も出ないというところはありますね。
牛尾:なんか説得力があるっていうよりも、もう説得済みですよ、って顔じゃないですか?
橋爪:ああ~。「説得済みですよ」の顔。やばいな……。
田島:あ、そうだったんですね~ みたいなことを言いながら。
牛尾:だから、こっちは空気を読んで、「あ、そうだね、そうだったよね」と。
田島:あははは、人に空気を読ませる。すごい面白いんですよね。
橋爪:次の歌も面白いですね。〈星の子が踊り狂っているところ あるいは古典落語の味わい/丸田洋渡〉。ああ?! ってなりますけど(笑)
牛尾・田島:(笑)
田島:あ、そうなんですね~みたいな。
牛尾:いや、これ、語彙が広くてえらいですね。
橋爪:うん、確かに。出てこないですよねなかなか。
牛尾:「人語を話す」もすごいなあ。
橋爪:「不完全」ってどういう評価やねん、ていうのもわかるなあ。
田島:でも、垂れてるのがなんとなく不完全というのもわかる気がして、説得されてしまった。
橋爪:「人語」が「不完全だった」だから、喋るのがたどたどしかったってことなのかなあとも思うのですが、でもそういうことを考えるための歌じゃないような気がするというか。不完全だった以上でも以下でもないところでできてるというか。垂れるように、とか、実際藤だから垂れてるに違いないじゃんとかも思うんですけど。
田島:たしかに。「ように」じゃないよ、って(笑)
牛尾・橋爪:(笑)
牛尾:藤だから垂れるなんですね、とか、初めて話すから不完全なんですね、とか、何気に一貫性が担保されているのも面白い。論理はないけど。
橋爪:破綻はしてないんですよね。なんか、辻褄の世界線が違うというか。この世界線では当然のことを書いてるんだろうな~とは思うんですけど、この世界線の人間じゃないんで、わかんないんですよね。
牛尾:なんか、夢のなかではみんな当然のごとく謎論理で動いていて、目が覚めてそれを思い返しているような気分。
田島:丸田さんのnoteを見ると、初めて短歌の賞に応募した連作ということで2018年角川の応募作も公開されてるんですけど、もうちょっと違う感じなのが不思議だなと思いました。〈窓を見て蓋を失くした水筒のように口開け嚥下する祖父〉すらっとしててうまいけど、ノーマルな理屈なんですよね。
橋爪:「そっちの理はわかるぞ」みたいな感じだよね。
田島:そうそう、それなのに、いつのまにかあっちの世界に行ってしまったっていうのがめちゃくちゃ面白くて。
牛尾:たしかに! 読みましたけど、こっちの理はわたしも知ってる。
田島:いつの間にか異世界に行ってしまったひとが歌だけを創生している……みたいな。何が起きちゃったんだろうこの人に。近くにいた人なら歌の変化を見てたかもしれないけど、noteを介して一気に見ると、どうしちゃったんだろう、と思った。歌集出すならこのまま編年体でのせてほしい。
橋爪:丸田さん自身の作風の変遷としておもしろいってことですね、要は。
田島:そうですね。歌の変遷としてこういうふうになったのが面白いな。全然知らないですけどね、ご本人のことも、何も存じ上げないですけど。でもnoteを拝見していてすごく面白い。この人これからどうなっちゃうんだろう~!? とも思うし。
牛尾:楽しみですね。
田島:もっと知らない理屈を見せてほしいですね。……いやでも、もっと知らない理屈を言い放たれるような歌っていうのは全然ある気がするんですけど、でも藤の歌はわかるわからないが微妙に通じちゃうことも、変なSF小説を読んでいるみたいな、微妙なわからなさが面白いのかな、と思います。
橋爪:でも世界線の理の「わかる度」の振れ幅は、歌によってけっこうあるような気がすると思っていて。〈地球似の惑星はありませんように。 すかさず入るニュース速報/丸田洋渡〉という歌が「FRIENDS」の一首目にあって。これはちょっとまだ理がわかりやすいというか。何を基準にわかりやすいというかもわからないですけど。まあでも歌によってブレはあるのかなあという気はしますし。
牛尾:たしかに、それはそうですね。
橋爪:〈愛すには時間がかかる 友だちと三日連続のマクドナルド/丸田洋渡〉とか。これは作風として、振れ幅を持たせているのか、それともまだ実験をしてらっしゃる途中なのか。ちょっとわかんない。まあ別にそれらを統一させる義務はないし、傷にはなってないのでいいんですけど。まあ、でも、いろんなバリエーション作れる人なのかなあ、って感じはありますね。
牛尾:というかわたしは、この手の作風の人は歌の着弾点がばらけるものなんだと思ってました。あんまり統制して一定にという感じではない。いろんな値を出すタイプの作風なのかな。こういう歌を作るひとは投球コントロールが難しいのではないでしょうか。そして、我々読者それぞれにも受けられるエリアにばらつきがある。
田島:濱田友郎くんの歌にちょっと作風としては似てる感じなのかな。
牛尾:大きくはそんな気持ちで読んでますね。
橋爪:なるほどね……。
田島:でも、何だろうな、この丸田さんの試みは何か新しいことをしているんだろうなという気配があって、見ていてすごくおもしろい。わくわくする感じで。
橋爪:わかります。隊の最前線に立って岩をゴリゴリ砕いてってくれている感じがする。それはすごく素晴らしいことだし、いいなと思う。
田島:うんうん。でも、めちゃくちゃやってるって感じじゃない。ぎりぎり意味がなんとなくわかってしまう。「理屈はなんとなくわかるよ」って感じなのかな。「心情がなんとなくわかるよ」とか、「景がなんとなくわかるよ」みたいなのはこれまでもあったような気がするんですけど、「理屈がわかるような気がする」みたいなのはなかったような気がする。まあ、景がわかる歌もこの連作の中にはあるけど。いやあ、おもしろいですね。おもしろい、おもしろい、ってわたしはずっと言い続けますけど(笑)


おそらく水がたまるのだろう裏口に親指ほどの苔のかたまり/小田島了「水のほつれ」『うたとポルスカ

田島:うたとポルスカというウェブサイトに載っている連作です。わたしはこの連作がおもしろいなと思っていて、その中で好きな歌という感じです。連作全体として水や植物の話とくにすごく小さなものへの微視をしている。この歌もすごく小さな裏口に苔をみつけて、そこに水がたまっていて、苔ができたんだろうというだけの歌なんですけど、微細なものをそこに見て、そこにある情をくみ取るということなのかな。
「親指ほどの」がおもしろい。本当に小さいなとよくわかるという感じ。描写のおもしろさもある。「裏口に」も、なんかおもしろいんですよね。こんなところにあるという驚きもあるし、そんなところを見るこの人のおもしろさというのもある。歌にするような感じじゃない小さなことを歌うのは、微視の歌ということだと思うんですけど、小田島さんの歌はちょっと別のおもしろさもある。
この連作の中だと、〈寝巻きのままで夜の川原に降りていくたくさんの子供たち さようなら〉とか、幻想的な感じがする。すごく細かい微細なものを写実的に捉えるけれども、ちょっとロマンチック、なところがおもしろいと思っています。小田島さんがゲストになってた同人誌『よい島』に収録されていた「春の形骸」という連作の〈あなたの家の花壇を荒らしにやって来るとっても腕の長いわたしが〉もいい歌だった。なんとなく不思議な世界観、なんとなくロマンチックな感じというのが持ち味なんじゃないかと思います。写実のうまい歌というだけじゃない気がしていて、そこがとても魅力的だなと思います。
橋爪:独特のツヤがある歌だなあ、と読んでいて思いますね。なんか、ほんとにツヤツヤピカーッてしてて。反射的に光るものに呼び寄せられてしまうときと似た感覚を呼び起こされる感じがするというか。なんなんだろう。なんなんでしょうね。
田島:不思議なんですよね。
橋爪:独特のフェチ感があるというか。宝物にしたいようなものをひとつひとつ歌にしていっているんだなあという気持ちに、させられる。ぼーって燃えるかんじじゃなくて、じんわりあったかくなるような、そこの温度調節がうまいというか。ちょっと数度温度を上げる、みたいな体温の出し方、というのがうまい人だなと思いますね。
歌をほめるときに、「細かいな~」とか「あでやかだな~」とか「迫力があるな~」とか、いろんな形容詞で歌をほめることができると思うんですけど、結構そのレパートリーが多いひとなのかな、って感じもして。例えば「迫力」だけでドーンドーンドーンって大太鼓打ち鳴らす感じで歌作ってるひともいる中で、けっこう、その歌の良さを言い表すときに使える表現のレパートリーが豊富。たとえばこの掲出歌は、細いなあとか描写が繊細だなあとかそういうことを言えるし、さっきの「寝間着のままで」は幻想的でちょっと悲しい、感傷的な感じもするし、あと「涙腺を涙が通って行く時に」とかだったら、苔の歌とはちがう細かさで、描写の忠実さみたいなところがいいポイントだと思う。歌の歌の褒めレパートリーがめっちゃある気がする。小田島さんの歌は。フラットにいうといろんな歌を作れる人という感じなんですけど。難しいな。
牛尾:いやでも分かります。『よい島』の小田島さんの連作めっちゃ好きで、でもこの連作はこの連作で、また『よい島』とは全然違うことやってる感じがする。しかも、小田島さんの歌は、私が読めてる範囲でだけですけど、作者とかの人生を見せて何か言おうとするっていうのは全然しないのかなと思っていて、その人生ライン以外のことを短歌でやろうとしたときに、こんなにやることたくさんあるんだなっていうのはすごいことだと思います。
橋爪:わかります。それに加えてやっぱり一番いいのは、独特のこだわりみたいなものを、自分自身で信頼している主体だな。ここが歌の良いところだということをすごく信頼して押し出してきている感じがする。それは読者への信頼と重なるんですけど。確かに、人生! 以外のやつ全部やるなこの人っていう気持ちになりますね。私の言いたかったはそういうことだと思います。
田島:人生じゃないのえらいなあ。
橋爪:いや、人生も大事なんですけどね。
田島:はい、人生も大事です。
牛尾:これまでの歌では感情とか思想の話をしていたけれども、この連作とか小田島さんの歌は、思想とかテーマみたいなものを全然話題にしないですよね。
橋爪:思想までいたらないぐらいの小さなこだわりなんですよね、きっと。
牛尾:なんとなくテンションがあがったりテンションが下がったりはするんですよね。いや、上下っていうほどか? 声の抑揚ぐらいかな。
田島:感情や思想以前みたいな話だと、物それ自体性、ただごと感かなと思いつつ、それよりはちょっと何かが乗ってるんですよね。情みたいなものが。
牛尾:ただごと歌というには、抒情的なんですよね。
田島:ロマンチックなんですよ。カメラのフィルターみたいなものがかかってますね。それがその歌その歌で、きちんと言っているものに対しぴったりな感じもある。すごく不思議ですよね。もしかしたら淡いのかもしれないですけど。
橋爪:感情以前の問題みたいな、言葉以前のものを言葉でやろうとしてる、「なんとか以前」がキーワードのような気がする。小さいし細いし些細なんですよね。些細で綺麗なものじゃなくて、些細な自分だけがわかるこだわりみたいなところの信仰じゃないかな。それがロマンチックなと思いますけどね。
牛尾:でも「なんとか以前」って、人間としてのレベルでは永井祐とか仲田有里がやってることでもあると思うんですけど、この歌は人間がいないっていうのがやばいと思いますね。
橋爪:「私」とかじゃないですもんね。
田島:いいなあ。
橋爪:〈傷つくほどの重みもなくて散らばったグラスの破片を踏んづけていく〉で、グラスの破片を踏んづける痛みとか、傷つくほどの重みもないという感傷だったり、たとえば「グラスの破片」を自分の人生のバラバラになったものだとか、「傷つく」とかを壊れてしまったものみたいな比喩にするのではなく、言葉通りで読んでいく読み味の方を優先した方がいいのかなという気にさせる力を持っている。というのはどこから来るんでしょうなあ〜?
田島:どこから来るんでしょう、この不思議さは?
橋爪:やっぱり「私の薄さ」と「こだわり」だと思いますけど。 違うのかな、わかんない。全然とんちんかんなこと言ってる気もする。
田島:それって本当は逆のはずなんだけどね。私が薄いとこだわりがないはずなのに……。いや、ステージが違うのか。私が薄いのは歌の中の話だけど、歌を作って演出している人はこだわりがある。
牛尾:正直、なんでこんなに人格・感情的な存在としての人間が消えてるのかわかんないですよね。人間性が全然ないと思う。そのなさが最高だと思うんですが。
田島:不思議〜。たくさん歌を見たいし、たくさん見たいと思ったら『よい島』がある。
牛尾:『よい島』は『よい島』でとんでもないですよね。
橋爪:『よい島』は『よい島』でとんでもない。ちょっと変えたら人間が出てくるのかな。一言二言、修辞を変えれば人間出てくるのかな、と思って試みていたんですけど。〈柑橘類の果肉のように透きとおり日なたの水に羽虫が混じる〉が〈柑橘類の果肉のように透きとおる日なたの水に羽虫が混じる〉とかだったらどうかなとか。結構色々試したんですけど。わからなくて匙を投げます。
田島:でも、掲出歌も「だろう」とか「親指ほどの」とか、手付きとしては人間がいるんだけど。
牛尾:人間の体はありますよね。飲み干すのも人間なのに。
橋爪:こんなに身体性が高いはずなのになんか「私」してないのは何でかなって思う。ひらがなの開き方?違うかな。(実験的にいろんなことを言ってあてようと思ったんだけど)
田島:下句で心情になりそうなんですが、「おそらく水がたまるのだろう」しか言っていない。
橋爪:情報を薄めてるのかな。31音で言えることよりもちょい少なめ、ちょいうす。
田島:カルピスみたいな。
牛尾:いやでも感情がないだけで情報量としては少ないわけでもない? いや、最近書評のためにずっと永井祐を読んでたので比べるとおかしくなるな。
橋爪:永井祐と比べる……。
牛尾:まあ、比べてしまうと、小田島さんの場合描写している出来事自体は沢山ある気がする。
橋爪:う〜ん。ちょっと少なくするんですよ、鈴木ちはねさんとか永井祐さんはめちゃめちゃ少ない。それよりは多いので多く見えるだけかもしれないです。
牛尾:比較対象があれでしたね。
橋爪:そう、めちゃくちゃ多い人とかに比べたらちょっと少ないかな。絵に描いたようなつぶやき実景よりもちょっと少ないのかな。う〜ん、でもやっぱりひらがなの開き方じゃ?
牛尾:「私」って感じがしないのは、情報量というよりは、我々がわざわざ人間を読まなくても十分おもしろがることができているからなのでは?
橋爪:そういうこと!?
田島:人間の心情を読む人もいて、「傷つくほどの重みもなくて」に感傷というのを読み込む場合もあるということですか?
牛尾:まあその場合も想定できるんじゃないでしょうか。例えばよくあるタイプの「近頃の若い人は〜」的な話、数年前とかにもよく見ましたが、あれは歌に対して欲しいものが違っていて、自分が食べ慣れているエリアに収まる範囲でよいものを見せてくれ、という話なんじゃないかということを思っていて。これはその話の応用なのかなと。
いま我々が小田島さんの歌を読むぶんには、人間とか感情とかを考えなくても、橋爪さんが言ったような、何かツヤツヤしているものがあって凄いなあと思って楽しめる。「人間」とは売りにしてるものが違う。でも普通の歌は普通の流れに従って作ると、人間の感情とか生活を売りにしているケースが多いので、人間が売りなんでしょうねと思われて人間を読みにいかれることになる、みたいな。
橋爪:その心の動きはあると思います。こだわりみたいなものをひけらかさないんですよね、小田島さんの作品って。短歌のおもしろポイント、くすぐられたら気持ちいいところみたいなもの、絶対人間だからある。そのポイントみたいなものと全然違うところに、この歌の演出者のこだわりがあるんだと思います。だから人間が薄いんだと思います。(どうや!)


「やがてかなしき」と下につければ風景みんな歌になるではないか/高瀬一誌「手」『スミレ幼稚園』

田島:高瀬一誌『スミレ幼稚園』。第三歌集です。いまは全歌集も出ているので手に入りやすいのではないでしょうか。高瀬さんは字足らずが多いという特徴、色々ありますが、これは身も蓋もなさが面白いとおもいます。いままで色々ありましたが、やがてかなしきと下につければ……。意味の面白さでとっちゃった。でもこの人は、〈雨傘がどんどん海へつづくのが鬱のごとしいや祭りのごとし〉とか、怖いけどユーモラスな歌が多いかな。なんとなくただごと的なことを言いつつ、ちょっと面白い。いろんな歌を読んで、身も蓋もないなと思っちゃう。『スミレ幼稚園』を読むときにはげらげら笑いながら読む。
橋爪:私も身も蓋もないなと思って読みましたよ。韻律が不思議ですよね。
田島:なんでしょうね。〈「やがてかなしき」と/下につければ/風景みんな/歌になるではないか〉?
橋爪:同じ切り方です。
牛尾:うーん、確かに〈「やがてかなしき」と/下につければ/風景みんな……〉と切るのは切るんですが「風景みんな歌になるではないか」は一気に読むかなあ。まあ高瀬一誌だし。
橋爪:すごい、ガバガバじゃないか
田島:高瀬一誌だからね。でも「やがてかなしき」が7音だから。
牛尾:最初嵌ったような気持ちになったと思ったらおいていかれるんですが、高瀬一誌…と思ってOKになるんですよね。
橋爪:まあ私も高瀬一誌だしと思いつつ……どうなんだろう、定型に寄せて読もうとする心の要請みたいなのはあんまり抱かないな。
田島:あと「風景」が変。風景だったんだ、我々のいままでやってきたのは。風景っていうのはわりと独特の捉え方のような……。ほんとに風景なのかなあ。
牛尾:まあ、つぶやき実景をやれってことなんですかね。
田島:そういうことなのかな。「やがてかなしき」が結構本質というか、短歌というのが寂しさと悲しさに寄りやすいっていう話で。この「かなしき」は古語的な「哀しき」ですが。そういうところに寄りやすいし、そういうものだとやりやすいよねという、本質っぽいこと言ってるけども、身も蓋もないのでシリアスにならない。
橋爪:本質ウソ情報みたいですよね。
牛尾・田島:(笑)
橋爪:これには騙されないぞという気になりました。身も蓋もないからこそなんですけど。
田島:天才なんとかbotみたいなこと言ってる。
橋爪:そう、天才博士botっぽい。
田島:「ほんまか?」と思いつつ、ちょっと「ほんまかもしれん」みたいな。
橋爪:当たり前のことを言ってるようだけど、絶対これ……っていう。
牛尾:「本質ウソ情報」っていい語彙ですね。本質ではあるんですよね。
田島:そう、本質かもしれないけど……。いやあ、おもしろいなあ……。
橋爪:うん、おもしろいね。
田島:5首話すぞって時に、こういうの話してみたいなのも話したいなと思って出しました……。
橋爪:本質ウソ情報でした、〜完〜
田島:本質ウソ情報、大事だと思いませんか?今回、別の種類のものを出そうかなと思って、いろいろ候補を考えましたが、やっぱりギャグとホラーがいいよねと思う。
橋爪:結論?
田島:結論。


2021/7/17 Zoomにて
(第3回へつづく)


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