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『永遠よりも少し短い日常』を読みました。

『永遠よりも少し短い日常』
  荻原裕幸
 [書肆侃侃房]

サインが欲しくて、本のあるところajiroさんのオンラインストアから購入しました。数に限りがあったので、今はもう、サイン本はないと思います。
なかなか感想が書けなくて、読み終わってから時間がたってしまいました。
もう少しうだうだ考えていたい気もしたのですが、明日、「現代短歌フェス名古屋2022」が開催されるということで、もしどこかで私が考えていたことをどなたかが書いたり話したりしたら、後出しになってしまう、それは悲しい、と思って、見当はずれかもしれないけれど書くことにしました。


なんてすてきな装丁なのでしょう。
いまの世の中を生きる、疲れがたまってきている人たちにやさしい。
そしてこのタイトル。
幸せな人にも、つらい思いをしている人にも通じるタイトル。
幸せは永遠には続かないから、日常を大切にしよう、と思えるし、つらい日常も、永遠よりは、少しは短い、つまり、永遠には続かないから、なんとかやりすごそう、と思えます。

この歌集を開いた瞬間の一首目に私は頭を撃ち抜かれて、その場で歌集を閉じてしまいました。こういうかんじで続くのか、これは一気には読めない、と思って。でもこれ、たぶん初めて読んだのではないのですよね。なのに歌集の一首目だと、なおさら響いたのでした。

誘ひながらどこか拒んでゐるやうな新緑の岐阜その先の滋賀
『永遠よりも少し短い日常』「三つの紫陽花とその他の抒情」荻原裕幸


作者=主体ではない、とか、そういう話を見たりしますが、これは、名古屋在住の荻原さん、またはその周りの人として読みました。県境をまたいでの移動、はばかられましたよね。今でもそう考える人もいます。毎日の通勤で移動する人もいる距離なんですけどね。岐阜は確か荻原さんが講座を持っていらして、それがオンラインになったりもしたのかもしれない、公開講座にいつ戻すか、迷ったりされたのかもしれない、と思いました。
岐阜のその先が滋賀、というのは、新幹線や在来線で、名古屋から京都方面へ向かうルートです。
「辞めておきます」と断言するのも、「行きます」と断言するのも悩ましいときに、迷っている様子を、誰も傷つけることなく、やんわりと詩情に乗せて表現しているのが美しい、と思いました。
新緑の誘いは断りづらそう。
でも反面、ちょっとズルい、と思ったのも事実です。岐阜と滋賀に感情を持たせているようで、ちっとも突拍子もない擬人ではなく、リアルに感じさせるのは、荻原さんの技ですよね。


瑞穂区丸根町の紫陽花この世から外にころがり出るやうに咲く
『永遠よりも少し短い日常』「三つの紫陽花とその他の抒情」荻原裕幸

この短歌を読んだとき、異世界の話というよりは、見たままを詠んだ歌なのではないかと思いました。フェンスや柵から、こぼれんばかりに、とういうかはみ出して咲き誇り、咲きすぎてさらに雨を受けて重たくなって、うなだれるように地面につきそうになっている、というか、地面についている紫陽花を、よく見かけたので。
下のツイートが流れてきたとき、

ああ、紫陽花に、その世界を託したのだな、と勝手に思って納得してしまったのでした。でも紫陽花は「外にころがり出るやうに」だけれど、荻原さんは「外が内部に同化してゆく」とツイートされていますね。動きが逆でした。


そしてハロウィンの日の下のツイート。

こちらで思い出したのが、この短歌。

地下も地上も秋づく久屋大通人がゆく人じやないものがゆく
『永遠よりも少し短い日常』「ヌーアゴニア春秋」荻原裕幸

え?ツイートは栄では?短歌は久屋大通では?と思う人もいるかもしれません。普遍的な場所の名前であるからいいのです、というだけが理由ではなくて、久屋大通と栄は地下鉄の隣の駅で、しかも私の感覚では、乱暴な言い方をすれば、栄も久屋大通も矢場町も栄です。軽く歩きます。そんな感覚の人は多いと思います。
最初に読んだとき、特にハロウィンを詠んだ歌だとは思わなかったのですが、秋だし、ハロウィンかもしれませんね。でも仮装しただけの人じゃない、人じゃないものも混ざっていそうなのが、この短歌の魅力です。


そしてこの歌集、全体を通して名古屋の歌集だな、と思っていたら、こんなツイートが。

午前三時の栄に麒麟がゐて、大名古屋ビルヂングには妖精が棲む。
そしていくつか上に挙げたツイートに戻る。または、続く。

好きな短歌や気になる短歌はたくさんあって、でもきりがないのでこのあたりでおしまいにするのですが、この歌集を読み終わって感じたことは、名古屋ライターの大竹敏之さんとトークショーをしていただきたい、ということでした。名古屋の地名のイメージ等、わからなくても通じるし、その土地を知ることは、短歌を味わうために必要とは限らない、というご意見があることもわかるのですが、この歌集に関しては、それでも私の好奇心が勝ちます。
こちらの歌集を元に、いりなかがどのような場所で、川名はどのようなところで、荒畑はこんなイメージのこんな街なんですよ、という大竹さんのトークを交えながら、荻原さんに短歌を解説していただきたい、と思ったのでした。

最後に、名古屋とは関係ない短歌をご紹介します。

蛇口ならんで二三が上を向いてゐて蝉のほか何の声もしなくて
『永遠よりも少し短い日常』「青空を聴く」荻原裕幸

蛇口を名乗っているので、気になりました。どうしても。
でもそれだけではなくて、好きなのです、この短歌が。
蛇口はふつう下を向いているもので、上を向いていたら、向けた人がいたわけですよね。でもこのときは、誰もいない。誰かが水を飲むなりそこでしていたということで、その、上を向いた蛇口が二三、ということは、それが一人ではなかったということ。ということは、つまりおそらくなんらかの会話をしていた可能性が大きい。私の頭に浮かんだのは、夏の部活の活気。その余韻みたいなもの。「蝉のほか何の声もしなくて」でそこを刺激してくるのが最高に好きです。いちど否定することで浮き出させる手法。


大竹さんとのトークショーを妄想しているうちに、「現代短歌フェス名古屋2022」の開催が発表され、ついに開催は明日に迫りました。すでに満席とのこと。
イベントで話される内容が発信される前に、まとめることができてよかったです。



お気持ち嬉しいです。ありがとうございます。