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警察と探偵 もしくはfufufufujitani氏への批判

はじめに

 私は「構成読み解き」という文学研究の運動に属しています。

構成読み解き運動はfufufufujitaniさんという方によって創始されました。

私は彼の研究や思想に強く共感し、構成読み解きの徒として活動を開始しました。言うなれば彼は私にとって「構成読み解きの師匠」とも言うべき方なのです。
 しかし彼と私の間には大きな考え方の差が存在します。そして今回、私はそのうちの二点に批判を加えていきたいと思っています。
 まず一点目。彼はいわゆる陰謀論を信奉しています。彼は今年の米大統領選について、バイデン陣営が不正を働いていたという主張に賛同しているのです。また彼はかつて「新型コロナウイルスを発生させたのはイギリスである」という主張も行なっていました。
 私はジャーナリストではありません。よって、それらの陰謀論を完全に訂正するだけの事実をここに並べ立てるのは私の仕事ではありません。しかし私は彼の陰謀論を知のあり方として不適切だと考えています。
 次に二点目。彼はいわゆる「批評家」のことを嫌っています。

若いときからそうだが、私はさほど評論を読まない。(中略)有名な評論の小林秀雄もバフーチンも読んでいない。読まないほうが解析出来ると思っている。なぜって文学研究界の雰囲気観察するに、「読めている、読めていない」をほとんど気にしていないからである。そのような集団がまともに読めるようになるわけがない。むしろ、そんな集団に帰属すると読める人間でも読めないようになるのである。そうやってあたら資質を無駄に潰してきた人物は、10万人や20万人ではきかないだろう。
彼らは数回読むだけで作品内容が把握できるという、壮大な錯誤を元に論評を組み立てる。
リンク先より)

 私は批評という行為を非常に有意義なものとして捉えています。それゆえ、私は彼の批評家への態度に強い違和感を覚えています。
 陰謀論。反批評。私が今から批判しようとしているこの二つの特徴は、同じ一つの問題を根源としています。乱暴に言ってしまえばそれは「哲学の欠如」です。fufufufujitaniさんは哲学の欠如によって、陰謀論や反批評へと傾いてしまっているのです。そしてその「哲学の欠如」は彼ばかりでなく構成読み解き全体の問題でもあります。
 これから私はfufufufujitaniさんのことをかなり厳しく批判するつもりです。しかし私は構成読み解きに分断をもたらそうと考えているわけではありません。むしろ私は、構成読み解きのさらなる発展のためにはこのような議論が必要だと考えたからこの記事を書こうと決断したのです。fufufufujitaniさんも11月9日、ツイッターで次のように述べています。

あと私達の活動を、上から目線で批評とかしてくれる人、居ませんかねえ。個人的には欲しいです。あそこが足りないとか、これでは説明になってないとか、、、、
リンク先より)

今回私は哲学に基づいてfufufufujitaniさんを批判します。哲学には「他の学問が学問として成立しているか」を調べるという役割があります。ここまで「上から目線」な学問もありません。ご期待ください。

カントと陰謀論

 前述したとおり、fufufufujitaniさんは陰謀論者です。しかし彼は陰謀論を絶対的に正しいと考えているわけではありません(陰謀論を絶対的に正しいと考えている人間は陰謀論者を自称しません)。彼は社会を楽しむために陰謀論的な世界観を用いているのです。

真実は陰謀論と不可知論の間に分布する。真実のポイントというものはなく、ただ単にのっぺり分布する。分布した真実からどこを採択するかは個人の勝手である。私は楽しくなければ嫌である。よって陰謀論を採択する。
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fufufufujitaniさんは「絶対的な正しさ」を信じていないのです。だからこそ彼は「楽しさ」のために自覚的に陰謀論を信奉しているのです。
 彼は構成読み解きに対してもこのような態度を取っています。彼は自らの読み解きを正しいと考えていません。広まれば正しいとされる、広まらなければ正しいとされなくなる、ただそれだけだと考えています。

Q:ある作品を読み解いたとして、その読み解きの正しさは誰が証明するのですか
A:誰も証明はできません。確からしさは最終的には社会全体が認めるかどうかです。ほかの社会事象と同じです。
リンク先より)

 陰謀論に関する彼の発言を哲学的に言い換えると次のようになります。
「人間の知性は独断論と懐疑論の間にしか存在しない。懐疑論はつまらない。よって私は独断論を選択する」
独断論と懐疑論。かつて哲学者イマヌエル・カントは『純粋理性批判』によってこれら二つの思想を同時に批判しました。

カント3

 カントは私たちが見ている世界を「現象界」と呼び、現象界は物自体によって成立していると考えました。
 私たちはリンゴのことを赤くて丸くて甘いものだと認識しています。しかし、「赤い」という性質も「丸い」という性質も「甘い」という性質も人間の元々持っている認識能力に由来する概念でしかありません。
 カントは独我論者(世の中にはただ自分一人しか存在していない、という思想)ではありませんでした。彼は人に「赤さ」や「丸さ」や「甘さ」を感じさせる「物自体」の存在を想定したのです。しかし、いくら物自体が人に赤さや丸さや甘さを感じさせたとしても物自体が赤くて丸くて甘いとは限りません。私たちに物自体を認識することは決して出来ないのです。このような思想を「超越論」と言います。
 カントは超越論をあらゆる学問の基礎に据えました。カントは超越論によって、独断論でも懐疑論でもない「学」を建設しようと考えたのです。
 前述したとおり、カントは「私たちは自らの認識の形式を通じてでなければ物自体を知ることが出来ない」と説きました。これはある意味において懐疑論的な立場です。しかし一方でカントは「私たちは認識の形式によって同じ結論を共有することが出来る」とも説きました。たとえば私たちは「7+5=12」という命題を絶対的に正しいものとして受け入れることが出来ます。これは純粋数学が人間のアプリオリな(先天的な)認識の形式に基づいているからだ、とカントは考えました。
 これを広げてカントは自然科学をも真っ当な学として基礎付けました。たしかに自然科学は現象界(認識可能な領域)しか相手にすることが出来ません。しかし、だからこそ自然科学は物を感覚の数量(温度、質量、大きさ、明るさ等)として扱うことが出来ます。そうすれば自然科学は数と数の関係になり、共有可能な正しさを持ち始めます。(ちなみにカントは時間や空間といった概念のことも「人間の主観でしかない」と考えています。私たちは時間や空間といった形式の中でしか物を認識することが出来ないのです)
 fufufufujitaniさんは文学と陰謀についてよく語っています。文学も陰謀も、煎じ詰めれば一種の「物語」です。そして物語とは人間の主観的な認識の形式でしかありません。(『純粋理性批判』の中でカントは物語の構築に必要な「因果」という概念を人間の悟性のカテゴリに加えました)しかし人間は物語を紡がなければ生きていくことが出来ません。人間は時間や空間の中でしか物を認識できないように、何らかの物語の中でしか事象を認識できないのです。
 しかし私たちは物自体を直接知ることが出来ないからこそ物自体に近づいていくことが出来ます。完成形は不可能だとしても、より確からしいものへ物語を書き換え続けることは可能なのです。そして、それによってはじめて構成読み解きは確かな「学」となるのです。

ショーペンハウアーと反批評

ショーペンハウアー

 カントの現象界/物自体をショーペンハウアーは表象/意志と言い換えました。観念論者だった彼は、「物自体」をも何らかの精神的な概念として捉えようと試みたのです。その結果彼は「物自体」を盲目的な意志だと考えるようになりました。このいっけん合理的な目に見える世界(表象)の裏側には、目に見えない非合理的な意志が蠢いていたのです。

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この彼の哲学は文芸を研究する際にとても有用な考え方です。「目に見えない非合理的な意志」を作者、「目に見える合理的な表象」を作品と言い換えれば、ショーペンハウアーの哲学はそのまま文芸理論になります。

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構成読み解きはこのうち表象のみ、作品のみを対象として研究を行なっています。それによって私たちは「この作品はどのような構造を持っているのか」を明らかにしてきました。しかし、「なぜこの作品はこのような構造を持っているのか」についてはっきりとした答えを見いだすことは未だに出来ていません。
 たとえば先日、私は「森鴎外『山椒大夫』の前半と後半は対句構造を成している」ということを発見しました。(詳しくはこちら

対句構造

しかし、「なぜ森鴎外はこのような構造を作ったのか」について私は明確な答えを出せませんでした。当然です。作品(現象界、表象)から直接作者(物自体、意志)の動きを認識することなど私たちには出来ないのです。
 そこに批評家の必要性があります。
 あえてレトリックを用いましょう。文学が犯罪ならば作者は犯人、作品は事件です。

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構成読み解き家のような研究者は、作品という事件現場を丹念に調査することによって作品(事件)の真相に近づこうとします。ミステリであれば研究者は警察です。
 それに対し批評家は、「自分が作者(犯人)だったらどのように作品(事件)を実行するか」という視点から作品(事件)の真相に迫ります。批評家は探偵なのです。

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それゆえ研究者の論文と批評家の論文の間には差が生じます。
 研究者の論文は研究でしかありません。それに対し批評家の論文は研究でありながら新たな文学作品でもあります。彼らは作者(犯人)となることによって作者(犯人)を理解しようとしているのです。
 ざっくりと要約します。
 研究者は論文を書くためにまず作品を読みます。それに対し批評家は作品を読むためにまず論文を書きます。批評家は「書く」という行為を通じて、作者が持っていた「盲目的な意志」を感じ取ろうとしているのです。
 たしかにこの方法論は「いかがわしい」です。陰謀論以上のオカルトと思われてもおかしくありません。しかし、この方法論が実際に役立つことも世の中には存在します。
 ポーの『盗まれた手紙』は(フィクションですが)まさしくそのような例を描いた作品です。警視総監(研究者)は大臣(作者)の邸宅を細かく「読み解き」ましたが、ついに手紙の行方を見つけ出せませんでした。それに対しデュパン(批評家)は「大臣(作者)ならどこに手紙を隠すか」という思考を通して手紙を取り戻すことに成功しました。
 fufufufujitaniさんは「地道な努力さえあれば構成読み解きは可能だ」と考えています。しかし、地道な努力による構成読み解きでは「この作品にはどのような構造があるのか」に答えることは出来ても「なぜこの作品にはこのような構造があるのか」を答えることは出来ません。前者の答えが現象界に属しているのに対し、後者の答えは物自体に属しているのです。それゆえ後者の問いに答えるためには批評家の直観がなくてはなりません。
 アリの牛歩はキリギリスの飛躍によって補完されなくてはいけません。構成読み解きと文芸批評は、相補的でなければならないのです。

むすびに

 ひょっとしたら今回の私の主張とfufufufujitaniさんの主張は何ら衝突しないのかもしれません。彼もところどころで批評家や直観を認めるような発言を行なっています。
 しかし、そうだとしても私は「この記事には意義があった」と自負しています。構成読み解きには哲学的な基礎がなくてはいけません。この記事がそのような哲学的基礎の先駆けになったのであれば、私はとても幸せです。

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