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物語構成読み解き物語・16

前回はこちら

「罪と罰」だけは、そこそこ反応頂戴している。

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パリっとした登場人物表になったからだろうが、実は表としては不完全である。余りが結構な量あるのだが、重要人物でないと判断して切り捨てている。インチキといえばそうである。しかしドストエフスキーといえども神様ではないから、このあたりの組立が限界だったとも思っている。だから「罪と罰」のだいたいのラインは示せたのではないかと思う。方法論としては「カラマーゾフの兄弟」の読み解きと同じ、つまり登場人物一覧表の整理であるが、今回はプラス今度は章立て表も作成した。

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やはり章立て表を作ると理解が早い。最初に読んだのは「カラマーゾフの兄弟」より前だった。その後一度も読み返していなかった。「カラマーゾフ」にハマっていたからまあいいと思っていた。読み解きするので1回読んだ。すぐ表を作成したから1回分、合計3回しか読んでいない。しかしそれなりに読解になったと思う。

思い起こせば自分が「読み解き」的なものに目覚めたのは、若い時江川卓(えがわたく)の「謎解き 罪と罰」を読んだからで、江川の主張が正しいかどうかはともかく、文学作品の内側には通り一辺倒の読書では到底知り得ない内容が潜んでいることを認識できたからである。実際に自分で「罪と罰」を読み解きしたのはそれから随分時間が経過した後だったが、あの時の自分の興奮が蘇って気持ちも少々若返った。

若いときからそうだが、私はさほど評論を読まない。実は小説もさほど読まないのだがそれはおいておいて、有名な評論の小林秀雄もバフーチンも読んでいない。読まないほうが解析出来ると思っている。なぜって文学研究界の雰囲気観察するに、「読めている、読めていない」をほとんど気にしていないからである。そのような集団がまともに読めるようになるわけがない。むしろ、そんな集団に帰属すると読める人間でも読めないようになるのである。そうやってあたら資質を無駄に潰してきた人物は、10万人や20万人ではきかないだろう。

彼らは数回読むだけで作品内容が把握できるという、壮大な錯誤を元に論評を組み立てる。だったらなぜ貸借対照表が存在するのか。章立て表や登場人物一覧表を作らず内容を理解できたと主張するのは、分厚い総勘定元帳ズラズラ眺めるだけで経営内容把握できたると主張するに等しい。無茶である。それでは把握できないから会計士が貸借対照表作るのである。経営コンサルという人種はいい加減なことを言っているという印象が世間では有るだろうが、貸借対照表も見ないコンサルは流石に少数だろう。ところが文芸批評はほぼ全員が貸借対照表を見ない。いかがわしいと言われることの多いコンサルよりも、文芸批評は一層いかがわしい。個人としてどうのこうのではなく、そういう業界なので善人でも業界の雰囲気に染まってしまうのである。

しかし小林にしろバフーチンにしろ、少なくとも私よりははるかに優秀な人間だったはずで、優秀なのにどうしてそうインチキになってしまったのか。当時はエクセルがなかったから、理由はおそらくそれだけである。現にエクセルがなければ私は全く読み解け無い。どんな評論家にも負ける自信がある。
そもそも私は記憶力が極端に低い。今現在のバイデン氏との記憶力勝負したらどうなるだろう。ギリギリ勝てる気がする。しかし負けるかもしれない。仕方がないから生活ではちょくちょくメモるのだが、字がこれまた汚い。汚い字のメモは読めない。自分で書いて自分で読めない。よって全てが流れ去ってゆく。だからエクセルに頼る。
仮に字が綺麗であっても今私が作っている表を手書きで作成するのは至難の技である。いい時代になった。

類推するに登場人物をグループ化する創作手法は、作者の記憶力を補う意味もあると思う。この方法だとキャラが混ざらず、スピーディーに書けるはずである。そもそもドストエフスキーは、記憶力にかなり問題がある人間だった。てんかんの発作があったから、発作後どうしても記憶に欠落が生じる。そのまま構成をど忘れして書いてしまって、後で「重要なことを書き忘れた。全てが台無しになった」と絶望していたらしい。絶望できる分だけ、私やバイデン氏よりずっと上なのだが、ともかくそういう人は登場人物をグループ化したほうが良い。場面の間違いはなんとかなっても、長編小説でキャラの表現が間違ったら致命傷である。だいたい(一応章立て表作ったが)長編になるほどキャラが重要になる。というか短編でキャラを描ききることは不可能である。

私の数少ないサンプルからの判断だから自信がないが、記憶力優秀な方はさほどドストエフスキーを好まない傾向がある気もしている。記憶力が良くてドスト好きな人も居るが、記憶力が悪くても楽しめる長編という意味ではドストエフスキーは間違いなく最強である。そういう意味でも個人的には親しみが持てる。

記憶と物語の関係はあまり考えられていないのではないか。物語は一般に、どうせ読者は内容を完全には記憶できないのだが、そのことを作者はわかっていながら、それでもある程度は記憶してもらえることを頼りに書かれるものだ。読者が登場人物のキャラや行動を、読んだそばから全部忘れるのならば物語は成立しない。散漫な物語を投げ出してしまうのは、単に散漫だからではなく、散漫さゆえに集中力が削がれて記憶が薄れ、ストーリーを追いづらくなるからではないか。
といってハイスピードに面白すぎても記憶は固定しない。記憶を固定させるに簡便な方法は反復だが、単純反復は面白くないから集中力が削がれて、結局読み続けられなくなる。難しいものだ。

そう考えれば前言を翻すようだが、ドストエフスキーのキャラグループ化技法は、キャラの一部分を反復しながら、物語のスピードを落とさず、読者の記憶力を最大限利用するという目的で編み出されたのかもしれない。作者の記憶力、読者の記憶力、どちらの仮説が正しいのかわからないが、いずれにせよ物語のキモには記憶問題があり、「罪と罰」は記憶問題に切り込んでゆく作品だと思える。


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