見出し画像

「じゃがいも」のお寺話20 初転法輪

無我(諸法無我)というと今の日本人の語感としては「無我夢中」のように「われを忘れて」という意味に感じてしまうでしょうか。そうではなくて仏教での無我は我がないという意味です。
我の説明をして、実はそのような我と呼べるようなものは無いとするのが無我だと理解しています。
我はサンスクリット語のアートマン(atman)の訳とされます。お釈迦様の時代から現代でもインドの思想として存在している魂、自我のようなものをアートマンつまりは我と呼ぶようです。

アートマンと呼ぶに値する塊があって体の中でその人の全てを操っていると想像します。人なら脳でしょうか。ターミネーターのチップのようなものでしょうか。
もしその塊を体の中からポコっと取り出して、抜けた体と分離できるとしたら、ポコっと取り出された塊を魂や自我そのものだと理解してアートマンつまり我と呼ぶと理解して良いのかなぁと思っています。
我は、生気・本体・霊魂・自我などの言葉で説明されます。人の全てを司る何かがあるのだとしたらそれを我と呼ぶようです。

仏教以外のインドの思想では我の存在をベースに様々な思想を考えるようです。仏教では我の存在を否定しています。我と呼べるものなどないと考えるのが仏教です。無我という思想です。

仏教には六根という、感覚や認識を生じさせる器官があるという思想があります。
現代で言う五感としての眼 (げん•視覚)、耳 (に•聴覚) 、鼻(嗅覚)、舌(味覚)、身(触覚)があり、それに判断したり感情に変換したりする意(知覚)で六根とします。
見えているものを人が認識する場合、外部から光として限に取り込まれて意で認識され、それが何か、良いものなのか、いらないものなのかなどを判断するはすです。
その場合の自分の範囲はどこまでなのでしょうか。意だけが自分と考えたいかも知れませんが眼とその外にある光と自分との明確な境界線が引けるでしょうか。よくよく考えたら無理だと思います。外部の光、受け取る眼、判断する意は全て連続です。
自分と自分以外とに明確に分けることは不可能で全ては自分の一部だと考えるのが仏教の思想です。自分つまり我などはもともと存在せず我と言えるものがもしあるのならモヤモヤとした湯気か煙かのように漂っているものと考えるべきだとするのが無我という思想だと思います。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?