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「じゃがいも」のお寺話41 鑑真和上(1/2)

平城京などの都の街作りやお寺の伽藍配置などは当時の遣などの資料を参考にしていると言われます。
奈良時代の仏教は国主導ではあったと言われますが国家鎮護だけでなく、近隣諸国と対等に話し合いができ、対等に扱われるためにも我流ではなく海外からも正規だと理解される仏教の体制が必要だと考えていたようです。近隣の国に学びながら国の体制を築いて行った時代です。

仏教とは仏、法、僧の三宝が揃って成り立つとされます。仏様や仏の教えは仏像や経典を取り入れて敬い理解すればとうにかなりますが、僧侶は人なのでなかなか難しいです。
どこまで厳密に行われていたのかは分かりませんが、少なくともお釈迦様の時代は10人の僧侶の了解を得て戒を授かって(受戒)正式な僧侶になるルールがあり守られていました。
日本に仏教が伝来したとき日本には正式に受戒を受けた僧侶がいるはずがないですから正式な僧侶になるルール、儀式を経て僧侶になった人はいませんでした。
中国や韓国で仏教を学び修行をした僧侶は日本にもいたので、そんな僧侶の弟子になりお寺の活動に従事して僧侶を名乗るようになったでしょうか。日本に仏教が伝来してから200年近くの間、厳密な決まりなく僧侶を名乗ったのだと思います。

奈良時代、僧侶になると納税や課役の免除といった特権が与えられたため自分で出家を宣言する「私度僧」と呼ばれる僧侶が増えます。特権を得るためだけの出家で、仏教の勉強も修行もしないような僧侶が現れて問題視されていました。

聖武天皇は正式なルール、儀式を経て戒を授かった人以外は僧侶を名乗れない制度を確立したいと考えていました。
戒を授けて正式に僧侶の資格を与えられる僧侶を隣国で探して日本に招くことを考え、鑑真が適任であるとして依頼することになりました。
断ってもよい人生を大きく変える依頼に対して鑑真は命懸けで日本に来ることを容認し目指してくれました。命懸けで日本を目指すには様々な理由があるようです。
5度の失敗で視力を失いながらも6度目の挑戦でようやく来日を果たします。

753年12月7日に屋久島に漂着し朝廷からの指示を待つことになり12月18日に屋久島から太宰府を目指して出港します。
12月20日今の鹿児島県南さつま市坊津町秋目という港に再度漂着しました。鑑真の本土上陸の地とされています。753年12月26日に太宰府に到着し、奈良に着いたのは754年2月4日だと伝わります。
鑑真は聖武天皇の歓迎を受け、孝謙天皇の指示(勅)により戒を授ける行為の全て任されました。

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