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「何もしない」をする

 普段は仕事でいっぱいの中、休みの日はゆっくりしたいはずなのに家事や残した仕事をして、休みになっていないことがあります。仕事ではなく自分の好きなスマホやテレビを見ても、なんだか休まった気がしないこともあります。本当に休むには、「何もしない」を意識して行う必要があるのかも、と考えました。

目次
・「何もしない」の状態とは
・「何もしない」の大切さ
・何もしないことこそ贅沢の極み

〇普段の私たちは、いつも何かしている
 普段の私たちは、いつも何かをしています。平日は仕事や家事をして、休みの時はスマホやテレビなど娯楽的なことをしています。
 仕事や家事は、一定の成果を上げてお金を稼いだり、生活する環境を整えるために必要な、「やるべきこと」に当てはまります。スマホやテレビ、読書等の娯楽は仕事等と違って「やるべきこと」というよりも「やりたいこと」という、前向きなイメージの活動です。
 多くの人は、休日は「やるべきこと」から抜け出して、「やりたいこと」をやる日だと考えているかと思います。しかし、やりたいことをやっているときも、結局は何かしている状態ですから、もしかしたら休んでいることにはなっていないのかも知れません。

〇「何もしない」の大切さ
 「何もしない」とは、どのような状態か。「やるべきこと」をしていないだけでは不十分です。「やりたいこと」もしていない状態こそが、「何もしない」にあたります。
 何もしないことで、私たちは元気に活動するための「休むこと」を本当に実施することができます。休むことは、単純に身体を動かさないことだけでは達成できません。なぜなら、「頭と心」こそが一番休めるべき部分だからです。
 仕事をしているときは、頭は当然フル回転ですし「上司に褒めてもらえた!」「なんで同僚のあの人はやってくれないんだ……」と、心もフル稼働しています。娯楽をしているときも、「今日は、何時にどこへ行って、何をして」と頭を使い、「これ面白いし、楽しいなぁ!」と心も稼働しています。つまり、いつも頭と心が稼働しっぱなしの状態なのです。
 ずっと動いていては、たとえ前向きな動きだったとしても疲れが知らず知らずのうちに溜まっていき、何かキッカケがあって溢れてしまいます。そのキッカケが往々にして、「やるべきこと」をしているときの失敗や嫌な思いをすることであるために、「いつも疲れがドッと来るのは、『やるべきこと』をやっているからだ。『やりたいこと』をもっとやろう」と考えてしまい、頭と心は休まるときがありません。
 だからこそ、「何もしない」ことが頭と心を本当の意味で休める方法なのです。

〇何もしないことこそ贅沢の極み
 「何もしない」とき、頭は当然何も考えていませんし、心も無感情の状態です。実際に「何もしない」をやってみると、ふわふわと何か思考が出てきては消えてゆき、心も様々な感情が沸いては消えていくことの繰り返しですが、そのうちに「無」の状態を数秒から数分間持続できるようになります。
 「無」の状態で頭と心を休めることができれば、疲れをいやして活力を取り戻すことができます。「そんなことをしていてはもったいない!」という方もいるかもしれません。しかし、「もったいない」とは「贅沢」と言い換えることができます。有限である命の時間を、「何もしない」ことに費やすというのは、贅沢の極みと言えるのではないでしょうか。それに、「何もしない」ことがその後の「何かする」の充実に役立つのであれば、充分に元が取れると思います。

 みなさんは、「何もしない」ができていますか。

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