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どう死ぬかを決めれば、欲望に惑わされない

 こちらの記事で、自分の健康への向き合い方について述べました。

「どうしようもない事態」にはどうするの?

 これを読んで、「自分で出来る限り、健康について調べ、必要なメンテナンスをしても、どうしようもない事態もあるではないか?」と、思われた方がおられるかもしれません。

 まず、まだ何ほどかの「治療の可能性」が見えている間は、思いっきりジタバタするつもりですし、そうすべきだと思います。

 しかし、どこかの時点で、それがないことを悟る時がやってくるはずです。

 やるだけやってダメで、人体についてよく知っている医者でもダメなら、それは潔く死を受け入れる段階です。

 ジタバタせずに、身辺整理して、最期を迎えます。

 どこでジタバタして、どこがそうでないのか、その見極めが大事です。

 それは、結局、死に方を決めていることによって養われるものかもしれません。

肚を決めているから、却って健康なのかも

 長生きをしたいわけではありませんが、自分に果たせる役目があるなら、出来る限り、心身を良い状態に維持するのが、一つの務めだと考えます。

 それで、何をやってもどうしようもなくなったら、受け入れると、肚を決めているに過ぎません。

 もしかすると、こういう緊張感が、却って、私の健康維持に良い影響を及ぼしているのかもしれません。

死生観が決まれば、欲望に振り回されなくなる

 自分の死に方を決める、あるいは、具体的な死の形は見えなくても、自分の死を受け入れてしまえば、成功・幸福・長生きへの不安や欲望を煽るような売り口上に惑わされなくなります。

 少なくとも、自分の死すべき運命を受け入れ、いざとなれば従容と死んでいこうと覚悟している人間に、「成功したいですよね?」「もっと幸福になりたいですよね?」「長生きしたいですよね?」「若くなって、異性・同性にモテたいですよね?」「苦しみから救われたいですよね?」と言ったところで、何も響かないでしょう。

 また、だからこそ、そういう輩の本音や意図も見抜けるかもしれません。

 死生観が確固としてあり、己の死に方を決めている人間には、宗教もこの世的な慰安も不要です。

 ただ、己の生命を燃焼するのを行うのみです。

欲望が増大するから、冷静さや判断力を失う

 欲望が増大していると、冷静さや判断力を失うのが人間です。

 欲望のために、とんでもない判断を正当化することもやりがちです。

 本当は食べてはダメなのに、「○○先生やナントカという本に、こういう場合は食べてもいいとあった」と独り言を言って、自分の行動を正当化したことはありませんか?

 そして、そういう人間を、罠にハメ、洗脳・操作するのは簡単です。

 何も、「無欲になれ」と言っているのではありません。

 生きるのに、欲は必要です。

 しかし、己のあり方を定める死生観がなく、己を律する戒律もなく、意志薄弱であれば、欲望に振り回され、愚かな判断をしてしまうのを止めるのは、非常にむずかしいのではないかと問いかけているのです。

真に幸福な人生を歩むために

 真に幸福で、健康な人生を送るためにこそ、どう死ぬかという覚悟を決め、生活を営むことが必要だと、最近は考えます。

 「幸福になろう」としない、「成功しよう」としない、その方が却って、それらから自由になるだけでなく、思ってもみない形で幸福・成功を実現することもあります。

 この異常な世界の異常さが、わずかでもなくなるように奮闘して、それで前のめりに倒れるなら、それで充分です。

 そう肚を決めてしまえば、世情の不安や混沌にも、欲望を煽る宣伝文句にも、恐怖や不安を煽って、特定方向に知覚を誘導する恐怖ポルノにも、惑わされることが減るように感じています。

 もちろん、来世の不安を煽ったり、罪を過度に責め立てる宗教の脅しからも自由になるでしょう。

マタイによる福音書/ 16章 25節
自分の命を救おうと思う者は、それを失い、私のために命を失う者は、それを得る。

復活がなくてもどうでもいい

 クリスチャンというのは、「イエスを自分の救い主として受け入れると教会で告白し、洗礼を受け、自分は死の後、復活することを信じる人」というのが、おそらく正統的な教義の理解と思われます。

 最近、思うのですが、私にとっては、復活があろうがなかろうが、どうでもいいと考えるようになってきています。

 自己の死生観を決め、「こう死ぬ」と決めれば、あとはそこにいたるまで、生命を燃焼させるだけですから、死んだ後、どうなるかなど、一体、それほど重要なものだろうかと、思うのです。

 結局、己の生命を完全燃焼させ、死に切ったところにこそ、復活はあるのではないかとすら、思います。

 死に怯え、死を受け入れない態度は、実は、復活とは真逆の発想なのかもしれません。

 567ごときで右往左往し、情報の本質を見抜く知性がなく、枠珍と黙示録を重ねて見ることができないお粗末な聖書理解の人々が復活に懸ける姿勢は、限りなく逃避に近いように見えるのは、気のせいでしょうか。

 カトリック作家ジュリアン・グリーンの言葉を、今、改めて思い起こしたいと思います。

“信仰は、何をおいてもまず、たたかいなのです。いいですか。たたかいであり、暗さです。そして、この暗さ、このたたかいから光がやって来るのです。私たちには多くのことが求められています。神は、隠れた神なのです。”
(ジュリアン・グリーン/マルセル・ジュリアン(原田武訳)『終末を前にして グリーンは語る』人文書院、1981(1980)、p,38)

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