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価値観のズレが露になった2年を経て

 567及び567枠珍について、家族・友人間・職場内・趣味のサークル内などでの、様々な見解の相違を多くの人々が体験したことと思われる。

 特に、家族内での見解の相違、いや、時に価値観の著しいズレと言いたいようなことを経験した人も少なくないだろう。

我が家の話

 我が家は、私の母と兄夫婦は二回目までを接種しているが、私は不接種を貫いている。

 2021年の4月頃までは、家族LINEに枠珍や567についての資料を載せていたが、「必要な情報はテレビや新聞から得られる。お前に教えてもらう必要はない」という母の一声により、以後、LINEはもちろん、会話でもこの話をしなくなった。

 詳しい内容はこちらに書いた。

 時々、TVのニュースを見た母が、別の話題に共鳴した際に、出るぐらいである。

夫婦間での見解・価値観のズレ

 Twitterでも、夫婦間で、接種について見解の一致を見ないケース、両方揃って不接種になったケースなど、いろいろあるようだった。

 前者の見解の一致を見ないケースには、枠珍や567についての話し合いはしているが、接種を止めようとしている人の意見を相手が全く聴く耳持たず、平行線を辿り、深い徒労を感じて、話し合いをやめてしまい、そのまま共同生活を送っているというパターンがあった。

 枠珍だけでなく、根本的なところで著しいズレがあったことによるショックもあっただろう。

 後者の両方揃って不接種になった場合は、元々、それぞれが予防接種や576の本質に気づいている場合と、一方が他方に情報提供する過程で相手が変わっていった場合、またそれぞれ異なるルートで徐々に枠珍のおかしさに気づいていった場合など、いろいろなケースがある。

友人三組の例

 三組の友人の例を挙げて、もう少し説明してみよう。

 関西に住んでいるAさん夫妻。30代。夫妻両方と面識がある。

 私が枠珍を接種しないことを言うと、旦那の方が「私たちはどちらも打ちません」と応答してくれた。

 都内に住んでいるBさん夫妻。50代。旦那とだけ面識がある。

 旦那は接種しないでいたし、私の資料も読んでくれたが、医療従事者の奥さんの珍妙な見解と、家族へのプレッシャー(「あなたが打たないなら、子どもに打たせる」)により、泣く泣く打った。

 接種者のよくわからない接種理由を多々見聞きしたが、いまだ、合理的に理解可能な理由にお目にかかったことがない。

 ここに出て来るイヌスケを思わせる。


 関東に住んでいるCさん夫妻。40代。旦那は学生時代の友人。奥さんは30代。

 ガッツリ両方とも打ちました。

 旦那には、資料を提供したが、見なかったのか、見た上での判断なのかは不明。

 少なくとも、重きを置かなかったことは、Facebookの投稿から察せられた。

 夫婦間で話し合いはしたと思うが、友人の性格からして、強いプレッシャーをかけたというよりは、話し合いをして、徐々に理解を共有していったというのが正しいだろう。

 Bさんのケースは驚きだったが、ショックだったのはCさんである。

 自然科学分野の人で、事実を丁寧に調べる人であり、わりと現実的な物の見方をする人だと思っていたから、ショックは大きかった。

独身で良かった!?

 また、SNSや友人の中には、独身だからこそ、夫婦間・家族間での強い意見の対立・価値観の相違による葛藤を感じなくて済んだという安堵の声を聞いた。

 友人たちの中には、家族関係が非常にハードな人たちもいるので、こういう気持ちはよくわかる。

 私も、一人暮らしをして、物理的に家族と離れていれば、もしかすると、ズレを感じても、あまり強いショックは受けなかったかもしれない。

 もっとも、2020・2021年の時点では、親元を離れられる状況が整わなかったので、ある程度は、致し方ない。

 とはいえ、振り返ってみれば、価値観や見解の相違による家族からのバッシングを経験するのも一つの巡り合わせだったとも言えなくもない。

 確かに、昨年4月時点では辛い思いをしたが、ズレがはっきり確認できたので、却ってよかったとも言える。

元カノを思い出す

 そこで、ふと、20代の頃に付き合った人はどうだろうと思った。

 別れた後、全く連絡を取っていないので接種したかどうかは、わからないが、仕事が看護師だったのと、親の期待に応えなければという発想が強かったので、接種している可能性は非常に高いと見ている。

 彼女と交際中、私は、休職中で、神経性疾患を患い、体力・筋力が格段に落ちていた頃だった。

 付き合って3年目に入ってすぐの頃、手紙を渡され、「親の期待に応えたいので、見合いをすることになった。ついては、あなたと交際できなくなったので、別れたい」とあり、絶句したものである。

 まだ、「他に好きな人ができた」とか「好きだという気持ちがなくなった」の方がマシである。

 病気の目途はついておらず、完全に復職できるかも未知数の時に、これをされたため、病気が悪化した。

 今から振り返ると、相手目線で考えられない人だったのかもしれない。

 それが事実であっても、相手がそれを受け止められる状況にあるかどうか、病気への影響を考慮するのが、コミュニケーション能力があるということだ。

 全く自分のことしか、考えていない。

 彼女もクリスチャンだったのだが、お別れして正解だったと思っている。

 その後、見合いはうまくいかなかったことを風の便りに聞き、さらにしばらくすると、私も彼女も教会を変わってしまったので、今はどこで何をしているか、全くわからない。

 彼女自身が仮に、不接種にしたいと思っても、彼女の両親(母親には会ったことがある)は打つ意向だったかもしれず、そうなると、「親を心配させたくないから打つ」という決断を元カノがすることは充分に考えられる。

 また、もし仮にあの時、別れず、その後、結婚していたら、どうなっていたか。

 まず私は甘ったれたままであったろうし、今のように社会の嘘や欺瞞に気づくこともなく、当然567の本質や枠珍の危険性に気づくこともなかっただろうと思われる。

 「陰謀論を信じている人って、バカだよね」と笑っていた可能性もある(笑う方がアホだ)。

 また、「体に不調を覚えたら、病院に行けばいい」という発想のままで、こちらの記事で書いたような健康理解には変わらなかっただろう。

 彼女と別れ、その後、教会において様々な形で嫌な思いをし、もがき、苦闘し、自分で考えることを数限りなくやってきたことが(もちろん友人たちの働きかけもある)、今につながっている。

 だから、彼女と別れて正解だったと思うし、結婚しなくて幸いだったと捉えている。

 Twitterで同様の人を見つけました。


誰かと暮らす際に考えるべきこと

 以上のことを踏まえて、これから誰かと暮らすことについて考えてみたい。

 それが、結婚という形を取るかどうかはとりあえず置いておくとしよう。

 異なる生活環境で生きてきた二人が暮らすわけだから、最低限、次のことはよく話し合って、理解を共有する必要がある。

・お金の理解・経済観念
・生命・健康についての考え方
・根本的な価値観・何を最も大事にしているか
・味覚
・社会問題についての基本的な見解

お金の理解・経済観念

 まずお金の理解・経済観念についてである。

 お金について、「生活していく以上、必要なものではあるが、本質的には紙切れ」と考えているのか、お金に多大な価値を付与しているかで、物事への対処の仕方は分かれる。

 後者からすると、前者は気が狂っているように映るかもしれない。

 また、互いの給与額を気にするかしないかも、無視できない影響を、二人の生活に及ぼすだろう。

 稼ぐ金の多寡で人間を計る発想を持っていると、「あなたはこれだけしか稼げない人間なのか」という誹謗を言う土壌を作ってしまう。

 今、述べた以外にも、様々なことがあるだろう。

 共同生活を送っていくからこそ、お金についての考え方については、よく話し合う必要があると思われる。

 言うまでもなく、借金の有無についても、である。

生命・健康についての考え方

 今回の予防接種に明らかだが、「予防接種には意味がある」と思っている人と、「予防接種は必要ない」or「注射を打たなくても、人間の免疫力で対処できる」と思っている人とでは、天地の開きがある。

 また、「体に故障が生じたら、人体の専門家である医者に行けばいい」という人と、「自分の健康は自分で面倒を見る。何かあったら医者に行けばいいという発想をしない」という人とでは、著しい開きがある。

 私のように、前者から後者に変わったタイプの人もいるので(多くはそうかもしれない)、見解の著しい違いというだけで諦めず、「なぜ相手はそういう考えなのか。昔からなのか、後天的になのか」を、よく話し合うことが必要だろう。

 どういう場合に医者の手を借りるのか、どういう場合に薬は必要か、そして輸血については、最低限、基本理解を共有しておいた方がいいかもしれない。

 輸血については、船瀬俊介・内海聡『血液の闇』がオススメである。

根本的な価値観・何を最も大事にしているか

 これは、お金や生命・健康にも影響してくるが、人生において何を最も大事なことと考えているか。

 この地上で、人間として生きるとはどういうことと考えているか。

 金という紙切れのためにあくせく働いて、毒物ぶち込まれて、死ぬのが人間なのか。

 それとも、誰もが一人一人、余人に代えがたい務めを果たすためにここにいると考えるのか。

 簡単に二つ挙げたが、これでも、価値観や物事の所作が大きく異なることがわかるだろう。

 また、根本的な価値観がどうかによって、共同生活の困難が減ることもあれば、増えることもある。

 できるならば、困難は減らし、一人で対処できないことは、二人で対処したいものだ。

 例えば、クリスチャン同士で結婚するとしても、一方は「神を信じるが、運命は自分で切り開くものだ」と自主・自律の精神を強く持っているのに対し、他方は「何かあれば、牧師先生に相談すればいい」という発想だと、著しい非対称が生じる。

 私自身は、クリスチャンとしては規格外の人間なので、少なくとも、後者のタイプや、毎日真面目に聖書を読んでお祈りするタイプの人とは全く合わないのがわかっている。

 毎日聖書を読んで、お祈りする。何度か、チャレンジしたが、毎日はできなかった。

 もしそうしないと、結婚できないとなったら、私は「結婚しない」を選ぶと思う。

 時間をかければ、変わるというものではないのがわかっているからだ。

 「毎日聖書を読んで、お祈りしないと、信仰がなくなるよ」と言われたら、そんな信仰はこちらから遠慮なく捨ててくれる。

 それは信仰ではなく、恐怖による操作である。

自立してから、結婚せい

 余談だが、根本的に依存心理の人は、結婚しない方がいいと思う(しかし、そういうのが多い)。

 自分の問題に自分で向き合わないだけでなく、他人が自分で取り組むべきことを阻害する可能性があるからだ。

 何より、そういう人たちが結婚して子どもが生まれると、子どもがあまりに早く「大人になる」か、あるいは手のつけられない人間になるか、そういうことが起こり得ると推測される。

 ひどいと、子どもは虐待を受けながら、育つ。

 子どもの人格を否定し、暴力をふるい、恐怖で意のままに操ろうというのは(その自覚の有無に関わらず)、人間として弱く、依存的な心理を持っているからだ。

 虐待する人間自身にどんな理由があろうと、虐待していい理由にはならない。

 おかしな理由で虐待する親を庇う人は、今、そこで苦しんでいるのが誰か、全く見えてないように思われる。

味覚・食べ物の好み

 一方が薄味に慣れていて、他方が濃い味に慣れている場合、非常な困難を覚えると思われる。

 薄味で作った料理なのに、醤油やソースを無神経にジャブジャブ入れるのを見て、苦痛を感じないと言えるだろうか。

 我が家は薄味なので、稀にファミレスや濃い味の料理を食べて、仰天することがある。

 薄味という点は、母に感謝している。

 濃い味を好む人でも、時間をかけて、段階を踏めば、薄い味に慣れていくことは可能だ。

 もっとも、それを行う人に、薄味に変えていく強い動機がなければ、達成は容易でない。

 共同生活を始めることで、一緒に食事をする回数が増えるのだから、食事・味覚については、出来る限り、ストレスがないのが望ましい。

 『美味しんぼ』で山岡士郎と栗田ゆう子が結婚した直後、味噌汁の豆腐の形か何かで士郎が文句を言ったが(結婚式の翌日だ)、同性としても、「なんだコイツ?人として大丈夫か?」と思ったものである。

 こういう手合いでないかどうかの見極めは、非常に重要だ。

社会問題についての基本的な見解

 567では、考え方の違いだけでなく、根本的な物の見方・価値観のズレまで露になった場合が少なくなかった。

 昨今では、SDGsがそういう可能性を持っている問題のように思われる。

 もっとも、これは、その時の社会・経済・政治の流れなど、様々な要因で変わるので、結婚前の時点では、見通し難い面もあるかもしれない。

 誰が、将来、メディアによって感染症による恐怖を煽られ、夫婦や家族・友人間で、価値観の相違による分断・対立を経験するなどと、結婚前に想像できただろうか。

相手の考えにオープン、かつ、辛抱強くある

 ともあれ、大事なことは、互いの見解に著しい相違があっても、それですぐに諦めるのではなく、どうして相手はそのような考えになっていったのかを知ることだと思われる。

 異なる考え、まして自分とは著しく違う見解を理解するのには時間がかかる。

 自分自身も、最初からその見解だったわけではあるまい。

 考えが変わって、自信をもってそれを抱けるようになるまで、試行錯誤があったはずだ。

 だから、自分の考えが理解されるようになるには、一定の時間がかかることを考慮し、辛抱強く取り組むことが必要だろう。

 そうしていく中で、互いの人間性についても、理解を深めていけるだろう。

結婚の「け」の字もなくても、結婚する場合がある

 もっとも、「自分は、結婚を全く考えていない」という人もいるだろう。

 しかし、いろんな縁や機会が重なって、望んでもいなかったし、想像すらしていなかったのに、結婚してしまうということが人生にはある。

 実際、私の友人で二組は、そういうケースで結婚している。

 結婚の数ヶ月前には、そんなことは、本人さえ、全く想定すらしていなかったのに、である。

 だから、そういう事態が起きても大丈夫なように、自分の考えを、適切な形で、他人に伝えられるような訓練はしておいていいだろう。

 出会いは積極的に作れる場合と、望んでいない形で発生する場合とがある。

 後者であっても、出来る限り、前向きに受け止めたいものである。

 何であれ、自分の中できちんと終わらせることが、自立ということだろう。


note連続投稿365日目

※2021/01/04に投稿を始めて、今日で365日目。

 一年続けてこられた。感謝である。

( ´∀`)サポート本当にありがとうございます!!😭😭😭🥰🥰🥰 (  ・ ∀ ・)ご恩返しするためにも、今後も一生懸命頑張ります!!😊😊😊