真実の探究の実り
意見は大事?
知らないことについて、人は意見を持つ。
よく知っている人や事柄について持つのは、手応えである。
誰が、長い時間を共に過ごした家族や友人について意見など持つだろう。
せいぜい、自らの体験を元にして、一つの在り方についての概念を持つだけであろう。
よく知らないことについては沈黙するという礼節からすれば、臆面もなく意見を言う輩は無粋の極みに見えないだろうか。
「自分の意見を持て」という教育には、精神の腐敗を感ずるかもしれない。
ソクラテスの態度
ソクラテスは意見なぞ持たなかった。
彼は、それは何かと常に問い、知者が無知者であるのを本人自身に明らかにした。
そのために、知者とうぬぼれている輩には非常に恨まれることとなった。
だが、名が残ったのは、彼を殺した側ではなかった。
真実を探究する
この数年間、人々は、ちょっとしたことから、物事に疑問を抱き、自分で調べて、何が起きているか、真実を明らかにしようと努めてきた。
世の論者と言われる人々が、メディアで取り上げられるテーマについて、様々な「意見」を饒舌に述べている間に、彼らは、「何が起きているか」「世界には本当は何が起きているか」を明らかにすることに努めた。
そうして、世の論者や知者の多くが、無知者か、さもなければ恥知らずであることに気づいた人も少なくなかっただろう。
また、真の論者が一貫してブレない人であることも、わかっていっただろう。
私もそうだった。
主流メディアで言われていること、あるいは権威あると見なされている人や、著名な人の言うことに違和感を覚えたことが、それを本当に知っていく最初の一歩だった。
そうなると、主流メディアの発する情報の見方も変わるし、読書の仕方も変わる。
誰が何を、どんな意図で、この話をしているのか。
どうして、ある人は、どうとでも取れる曖昧な言い方をするのか。
自信があるなら、明瞭に、わかりやすく表現できるはずなのに、そうしないのはなぜか。
そう問い、「本当の情報」に飢え渇きながら、探究していった。
しかし、そうでなければ、「真実」には出会えない。
無知の知
ソクラテスは、自分は知者ではないとことあるごとに言っていた。
周りが彼をどう見ていたにしろ、彼は心底、自分は「何も知らない」と思っていた。
だから、「それは何であるか」と問い、知っていると思われる人々に問うてきたのだ。
だが、プラトンの作品を見ればわかるように、問われた人の中には、ソクラテスから問われることによって、自分が何も知らなかったことに気づいただけでなく、確かに知っていたことが何であるかにも気づいていくのだ。
こうした営みは時に孤独なものである。
だが、どこかで同じ歩みをしていた人々が出会うことがある。
その時、自分の長い道のりの労苦が報われる喜びを味わうことができる。
あなたの探究は無駄ではなかった。
真実を求める歩みは、決して、実りなしには終わらないのだ。
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