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誰にでも癒しは行える

癒しとは何か?

 癒しというと、何を考えるでしょうか。

 肉体的な怪我や病気を治すこと、精神的な病を治療すること、カウンセリングを思い浮かべられる方がおられるかもしれません。

 今日は、少し違った観点から、癒しについて述べたいと思います。

 それは、理解であり、状況を受け入れられるようにすることであり、自分の中にある良きものを思い出すことです。

 これから、緊急放送で、「真実の開示」がなされた場合、多くの人は、混乱し、自分のしてきたことが間違いだったと知って、ショックを受けるだろうという笹原俊さんの投稿を、昨日、紹介しました。

 笹原さんのスレッドはこちらです。

 こちらもご参照ください。

情報開示後に危惧されること

 最初のスレッドで、笹原さんはこう述べていました。

 “情報開示が行われた時点で、銀行員や経済学者、医師や製薬会社、赤十字や国連の職員など、自分たちが一生をかけてやってきた仕事が、何の価値もないことだった、自分の人生は無駄であった、とわかってしまう人々がたくさんいます。”

 それは、世界観・人生観の大きな揺らぎ、人によっては転覆として、感じるようなショックだろうと思われます。

 その際、これまで何があって、現状がどうなっているか、受け手にわかる形で伝えて、物事についての理解を得られるように助ける必要があります。

 世界観や人生観の再構築には、時間がかかりますが、生きる意欲を湧き上がらせ、前向きに人生に取り組むには、ショックを受けた人たちの混乱を、できる限り、和らげる必要があります。

 そのためには、適切な形で情報を伝えて、物事の理解や見通しが持てるように助けるのが望ましい。

 この理解や見通しを持てるように助けることも、広い意味での癒しです。

 皆さんもご経験がないでしょうか。

 何か、大きな混乱を覚える出来事に直面して、長い時間をかけて、それが何だったかがわかった時、霧が晴れるような感じを抱かなかったでしょうか。

語源から考える

 癒しについて、語源から探ってみましょう。

 癒す(heal)という言葉は、全体性(whole)という言葉と語源が同じだといいます。

 癒しとは、自己の全体性が回復される営みに他なりません。

 プラトンの『パイドン』で、ソクラテスの弟子たちは、ソクラテスと話すことで、自分が癒されることがあったと語っています。

 彼らは、ソクラテスと話すことで、自己の全体性に触れ、欠けた部分が補われるような経験を何度もしたのではなかったか。

 また、healは、holy(聖なる)とも語源を同じくします。

 癒された時、何か自己の根源と再び結びつくような感じがしたら、癒しとは、自己の神性・聖性の回復とも言えます。

 また、癒しをもたらす者は、他者が自己の全体性を回復できるように助力する、神聖な援助者とも言えます。

 癒しを広い意味に捉えれば、医療従事者やヒーリングのできる人だけが、行える行為ではなくなります。

 たとえ、何もできないとしても、苦しんでいる人に、暖かい理解の眼差しを向けること、魂の完全性を見ることも、癒しの行為となります。

「見る」とは、魂を見ること

 アメリカで薬草を商う会社をしているミッチェル・メイという人がいます。

 彼は若い頃、交通事故で大けがをしました。

 最初に運び込まれた病院では手の施しようがないので、カリフォルニアのUCLAの病院に移送することが決まりました。

 ファーストクラスの座席四つに寝かされて、飛行機に乗ったが、最前列の席だったため、他の乗客が彼の横を通りました。

 その時、彼らの想念をダイレクトに感じたという。

 彼の言葉を、『ミッチェル・メイ・モデル』(ミッチェル・メイ著、若松英輔監訳、大空夢湧子通訳、VOICE、2007)から引用します。

 "ほかの人に対して、私たちがどういう想念や感情を持っているのか、それが相手の人にも、かならず影響を及ぼしている、ということを、私は身をもって体験しました。"(p,89)

 多くの人がミッチェルに恐怖を感じていた時、カトリックの神父と修道女が通りました。

 多くの乗客たちと、神父や修道女の関わりは違いました。

 それを、ミッチェルはこう述べています。

 "私をちゃんと見て、本当に私と一緒にいてくれた、私とつながってくれた、そう思ったんです。すると、痛みがひいてくのを感じました。怖れもしばらく和らぎました。"(p,90)
 
 カトリックの人たちは何をしたのか。

 "彼らは、私がそのように壊れている状態を見たと同時に、私の完全性、いわば魂の完全性を見てくれていたのです。"(p,90)
 
 カトリックの人たちは医療行為をしたわけでもなく、言葉をかけたわけでもありません。

 ただ、「見た」のです。

 それが、ミッチェルの痛みと恐れを和らげた。
 
 これもまた、癒しです。

 トランプさんもおできになりますが、相手の苦しみの根源を見て、できる範囲で気遣うこともまた、苦痛を抱える人たちにとっては、癒しとして体験されます。

信じることは他者に大きな力を与える

 あるいは、信じることも、大きな力を他者に与える行為となり得ます。

 ミッチェルはこんなことを言っています。

 "ほかの人を信じるということ。これはとても大切なことです。ときに、人を信じるということが、私たちが他者に与え得る、最も重要なものである場合もあります。"(p,84)

 ショックや混乱で苦しんでいる人が、立ち直って、また人生を切り開いていく力があると信じるということ、これも、癒しです。

体に触れる癒しの業

 あるいは、ハグや、肩や頭をなでるといったこと、肩を軽く叩いて励ますというのも、弱り、傷ついた人にとっては、癒しの行為になり得ます。

 もちろん、これらは、親しい間柄という限定条件はつきますけれども。

 ショックが大きすぎると、最初は言葉を言うよりも、ハグ、身体の一部に軽く触れる、なでる、手を握ってあげる、手をつなぐということの方が良いかもしれませんし、相手も安心を感じやすいかと思われます。

癒しの体験とは全体性の回復である

 食物を食べることで、誰かに自分の苦悩を真摯に聞いてもらうことで、本を読んで自分自身の行動に理解が与えられることで、人と触れ合うことで、人は自己の全体性に触れ得ます。

 その時に調和を感じるならば、その人は「癒された」のです。

 癒しの体験には、全体性の回復が伴う。

 これが、真正の癒しと偽りのそれを区別する指標のように思われます。

一人になる時間も必要

 また、回復の途上では、他者の助けとともに、一人静まる時間の両方が必要です。

 その時、自分に合ったやり方で、瞑想をするのも良いかもしれません。

 medicine(薬)とmeditation(瞑想)の語源は同じです。

 瞑想もまた、一種の自己ヒーリングとなり得ますし、それを伝えてあげることも、癒しの行為となり得ます。

先に目覚めた人だから、できること

 多少の差はあるにしても、一足先に「目覚めた人」には、これから真実を知ってショックや混乱を経験する人を助ける務めがあると、私は思います。

 もちろん、一人一人が自分で考え、判断すればよいことです。

 でも、苦しんでいる人がいて、何か助けになることをしたい、というのは、人間の、深い愛情に基づく行為ではないでしょうか。

 いろいろ書いてきたように、何か特別のことをする必要はないのです。

 ショックや混乱を和らげ、状況を理解し、物事に見通しを持ち、人生を歩いていけるようにするために、自分に何ができるか。

 相手の置かれた状況を見て、考え、その時に、適切と思ったことをやればいい。

援助の際の根本原則

 ただ、一つだけ、根本となる考えをご紹介します。

 ヴィクトール・フランクルの『夜と霧』を訳された霜山徳爾さんの『素足の心理療法』にこんなことが述べられています。

 心理療法にとって最も根本的な原則は、「害を与えざること第一なり」である、と。

 これは、「うまくいかなくてもよいから患者を傷つけるな、という決して消極的なこと」(p,9)ではありません。

 そうではなくて、我々がただでさえ、日常、人を傷つけるものであるという、深い人間観察に裏打ちされた洞察です。

 「心ある人でその凄涼の想いを経験しなかった人はないであろう」(p,9)と、著者は指摘します。

 だからこそ、「心理療法の場面では一見、消極的に見えて、この害を与えないという心掛けこそ、心理治療家の第一のたしなみであり、持つべき謙虚さである。」(p,9)

情報を伝えようとして反発された経験が役立つ時

 トランプさんやDSの情報を伝えようとして、反発を経験した人たちは少なくないでしょう。

 そして、相手に準備ができているか、慎重に見極めるようになっていった方もおられるかもしれません。

 この時の経験は、「真実の開示」でショックを受けた人たちを助ける上で役立ちます。

 援助が害にならないのはもちろんのことですが、そのためには、相手の状況、心理状態、考え方を慎重に見極めて、何が助けになるかを吟味する必要があります。

 ショックの度合いによっては、情報ではなく、手を優しく握ることがふさわしい場合があります。

 リラックスできるハーブをプレゼントしてもいいかもしれない。

 あるいは、音楽を勧めてもいいかもしれない。

 モフモフキャラの画像や動画を見せたり、ホイミスライムの動画を見せるのもいいかもしれない。

 相手が安心し、全体性を取り戻す一助となるならば、どんな形もあり得ます。

ナウエンの言葉

 最後に一つ、言葉を紹介します。

 これは、カトリック司祭のヘンリー・ナウエンの『傷ついた癒し人』にある一節です。
 
 "傷ついた人間が前に進めるようになるのはそのことを忘れることによってではなく、そのことに直面し、そして自分の体験した良い思い出や神の言葉を思い出すことによる。"

 自分の中にある良きものを思い出すように示唆し、励ますこともまた、情愛深い、癒しの行為ではないでしょうか。


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