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祖母は空襲で亡くなった(改訂しました)

私の祖母は事実上「空襲で亡くなった」…言い換えれば「B29に殺された」ようなものなのだけど、何故か私の父は私の前でそれを声高に叫んで煽り立てるようなことはしなかった。
が、父はおそらく祖母を死なせたことに対して強い無念を抱いていたことだろう。
それを思わせるものが我が家にはあった。

私が幼い頃、家の1階の押入れの隅に大きめの瓶が置いてあり、中は何かよくわからない茶色のドロドロしたもので満たされていた。
少し脂っぽい臭いがして、気持ち悪かった。
父はそれを「お祖母さんの薬」と呼んでいた。
祖母が亡くなった状況を、私はなかなか正確に理解できなかった。

自分が50歳を過ぎてから、ようやく長いスパンの時間経過が理解できるようになってきて、祖母が亡くなったのが1945(昭和20)年、静岡市が米軍による大空襲で9割焼失した年だった、と理解した。
が、それでもまだ私の認識は曖昧だった。
父が「お祖母さんは空襲で亡くなった」とは言っていなかったからだ。
今の言い方をすれば「空襲の関連死」なのかな、とつい最近(多分2〜3年前)まで思っていた。
が、実態はもっとはっきりしていた。
空襲があった時、他の家族は近くの安倍川に逃げたり、或いは父と次兄はバケツリレーをするなどしていたけれど、どうやら祖母は、おそらく身体があまり動かないから?というような理由で、庭に設けた防空壕に入ったのだった。
家には落ちなかったけれど、焼夷弾は庭に落ちたらしい。

その時に、祖母は足に大火傷を負ってしまったらしい。
祖母は、その傷が元で、それから1週間ほどで亡くなった。
遺体は大八車に乗せて安倍川の河川敷へ行き、そこで野焼きにしたのだそうだ。

こう書いてくれば、もう「祖母は空襲で亡くなった」と言っても全く過言などではない、と納得できる。
私が幼い頃に見つけて不気味だと感じていた「お祖母さんの薬」は、祖母が亡くなるまでの1週間、父が必死で看病するのに用いていた塗り薬だったのだろう。
が、なにしろ何十年もの間私は父の言動や態度からそのことを「曖昧にする」ことばかりを学んでしまったらしく、現に今こうやって「納得できる」と言い出しても、それはあくまで頭が、という話で、正直気持ちがついていかないのだ。
…何故、そんなにまでして、父は、或いは私は?「曖昧にする」ことに固執したんだろう?
この乖離(或いは解離?)自体、私にとっては持て余してしまうような当惑の対象になってしまう。

なんとか冷静さを取り戻そうとしながら考えてみると、父が「曖昧にした」のは、戦後の成り行きの中で仕方のない選択だったのかもしれない、とは思う。

父は1933年に弁理士資格を取得していたのに、その後ほとんど使う機会もなく、夜間中学の英語教師をやるなど、ほとんどバイト暮らしみたいな状態だった。
「士業」だからと特別扱いされることもなく、それどころか30代になってから徴兵され、自身も重傷を負って半年間も陸軍病院に入院していたこともあった。
そんな状態だった父にとっては、戦後になり戦時特許体制も解除され、念願だった弁理士の仕事を再開することができたのは喜ばしいものであったに違いない。
それがたとえ戦勝国である米軍の出先機関GHQとの交渉が中心になってしまったりしても。
父は日本の知的財産権がGHQの占領政策を通じて米国に奪われてしまうのを防ごうとしていたらしい、と、同じ職についた次兄から聞いた。

かつての敵国、自分の母親を殺した国であっても、父が生きていく上ではなるべく冷静に客観的に関わるよう心掛けるしかなかったのだろう。

それがすっかり常態化してしまった「戦後16年」の頃に、私は生まれた。

父はもしかしたら、何度も何度も自問自答を繰り返したのかもしれない。
「こんなことで良いのか」と。
が、空襲のどさくさに紛れて行方不明になった父の最初の妻の子どもたちである兄姉たちに言わせれば「本当に食べる物もまともに得られないほどの貧しさ」の中で家族4人が生き延びるには、他に打つ手がなかったのだろう。
…やがて自問自答を繰り返す虚しさを思い知り、黙るようになっていく。
もはや「そのことには触れなくても当然の前提」になったところに、父は私と弟の母と再婚し、私たちが生まれた。
…そんな時代背景だったのではないか。

父の生き様については、私もきっと同じような立場に置かれたら同じように思うのだろうな、と共感してしまう。
が、それをそのまま受け流しても良いものだろうか。
そこに「過ち」は含まれていないのか。

上の世代に対して冷酷と思われようと、逆にそれをリアルタイムで経験した世代ではないからこそ、同じ過ちを決して繰り返してはならないと、半ば歯を食いしばるようにして強く誓わなければならない、とも思う。
ある意味、より深い共感であるほど、より強い勇気を持って乗り越えなければならないのだろう。

…が、「同じ事態の渦中にいたら」と想像すると、私には乗り越えられる自信はない。
であれば、そのような「渦中にいたら仕方がない」という「渦中」そのものを、防げる限り防ぎながら生きていきたい、と思う。
そのためにできることは、いくらでもある。

(カバー写真:出典はWikipediaより 静岡大空襲 は1945年6月19日深夜〜20日早朝にかけての静岡大空襲直後の様子。空襲で焼けずに残った私の実家も、特定はできないけれど写っているはず)

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