他人の苦労はゴマ粒大、自分の苦労は無限大
美味しそうなコース料理を前に、私はミニトマト半分しか食べていない。次々と運ばれてくる料理。皆さんの前の皿は、次々と入れ替わり、ひと皿のみ。私の前には、無数の皿が広がっている。
「私だって、食べたい。黙ってくれ。首絞めたろか?」
心の中で、何百回、叫んだことだろう。どれだけのフードロスを発生させてしまったことだろう。後悔しかない。
某韓国企業の日本法人で働いていた私は、いつのまにか何でも屋になっていた。日本法人は立ち上げたばかり。社員5人の小さな組織。
日本語と韓国語の両方を読んで、聞いて、書いて、話すのは私だけ。気づくと、すべての仕事が私という通訳機経由になっていた。顧客との商談にまで駆り出されるようになった。
商談だけで終わればいいが、たまに夜の会食がつく。せっかく韓国からいらしたのだからと、かなりいいお店。なのに、なのに、皆様、よくしゃべる。
要領の悪い私は、食べたいのに、食べるタイミングをつかめない。ひたすら、自分を犠牲にして、通訳しつづける。私は優秀なAIではない。喉はカラカラになる。ひたすら飲む。お腹はタポンタポン。
食べる意欲を失った頃、思い出したかのように言われる。
「ジャッキーさんも食べて」
私の心に芽生えた殺意を、たぶん誰も知らない。
今なら、もう少し要領よくやる自信がある。力の抜き方がわかる気がする。私も成長したものだ。
先日、その頃の同僚から、久しぶりに連絡をもらった。
「あの頃は、大変だったでしょう。ありがとう」と。
勤務する会社が、日本企業に買収され、日本語の勉強を始めたらしい。日本の親会社とやりとりで、苦労しているうちに、私を思い出したとのこと。
人は、他人の苦労は過小評価し、自分の苦労は過大評価するものかもしれない。他人の苦労はゴマ粒大、自分の苦労は無限大。である。その無限大の苦労を理解してくれる人が、一人いるだけで、報われた気になる。
そして、その理解者には、ネコのように懐きたくなる。私はいま、ネコになりたい。
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