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【百寿コンシェルジュ・神崎眞のエピソードファイル】父返る(3)

こんな騒動から一カ月余りが過ぎた頃、父は夜間せん妄が激しくなった。戦争体験からくると思われる夢にうなされ、部屋の中に敵がいると叫び、窓ガラスや鏡を自分の拳で粉砕した。止める母を殴り眼底骨折にまで追いやった。精神安定剤なしでは夜を過ごせないようになり、日中は片時も母のそばを離せなくなった。これが、元来、社交的で友達づきあいが何より元気の素であった母にはこたえた。

母が救急車で担ぎこまれる件があってから訪問診療に来てくれるようになった医者からは、アルツハイマーの進行する父と二人っきりで過ごす生活こそが、母の最大のリスクだと指摘された。

響介も納得し、紹介してもらったケア付き住宅への入居を考えたのだが、結局は母の合意を得ることができなかった。母としては、どうしても父を他人任せにすることに対して抵抗があったのだ。紆余曲折はあったものの、そんなこんなで危うい時間がさらに1年が過ぎていった。

しかし…。翌年の秋が冬に変わろうかという頃になると、ついに来るところまで来てしまう。一旦は、「できるところまで自分でやってみる」・「父さんとふたりでやってみる」と踏ん張った母ではあったが、もう死にたいとまで言うほどに追い詰められてしまった。何が母を苦しめたかと言うと、徘徊である。家のなかで自分を叩いたり、モノを壊したりするのはまだ我慢できる。しかし、近所の家や警察の厄介になるようになると、もう惨めで情けなくてダメだ。そう言って母は涙を流した。 

そして、ついに、かねてより計画しては立ち消えになっていた、介護保険サービスの利用を決めた。ホームヘルパーが家に上がりこんでくることを良しとしなかった母と協議を繰り返し、ようやくのことでデイサービス(通所介護)とショートステイの利用に踏み切ったのだ。とにもかくにも、父を母から離すことで、一日のうち何時間かでも母を介護から解放してやることが目的だった。週一日から始め、徐々に利用回数を増やしていった。その甲斐あってか、デイサービスに出かけた日の夜は、父もぐっすりと眠るようになった。

しかしながら、父の認知症は確実に進行し、クリスマスの頃には、母を市役所の職員と呼んだり、すでに亡くなっている父の姉と間違えたりするようになる。徘徊や暴力は次第に鳴りを潜める一方で、日に日に塞ぎがちになっていった。あれほど好きだった時代劇や西部劇のビデオを見ることもなくなり、部屋にいる時はボーッと天井を見つめているだけといった状態になっていった。この時点でまだ救いがあったとすれば、食事のみならず、排泄まで自力でできていたことだ。

だいぶ後になって、神崎のサポートをもらうようになるのだが、彼はよく言っていた。人によって頻度や間隔がまちまちな排泄がコントロールできなくなったら自宅での療養は不可能だと。排泄に介助が必要となれば、家族はおちおち眠ってもいられない。その結果、心身が壊れていくという流れだというのが神崎の説明だった。

長きにわたり、なるべくなら家で介護をしてあげたいという母の希望を尊重していたのだが、ついに、この年の暮れ、響介のもとへ母からギブアップのSOSが入った。果てしなく続く介護に疲弊した母の言葉が私の背中を押した。

お父さんが憎い。そんなふうに思う自分が憎い。もう死にたい。

決断を下さなければならない時が訪れた。母を救うか、父と共倒れさせるか、である。

ここで響介は、偶然にも立ち寄った書店で、「失敗しない終のすみかの選び方」という週刊誌の特集記事に出会う。そして再び、百寿コンシェルジュの神崎という名前に触れることになった。購入して書店を出るや、こんどは躊躇することなく電話をかけてみる。

数秒後、重厚感のある、でも人なつっこそうな神崎の声が甦ってきた。

「ああ、お久しぶりです。その後、お母さまのほうはいかがですか?」
「その節はどうも…。その…、母はどうにか元気にやっているのですが、今回は母のことではないんです」

概略だけ伝えると、数日後に神崎の時間を取ってもらい、直接詳細を聴いてもらうことになった。今度ばかりは、病院でカルテを取ってきてもらうのとは依頼内容の次元が違う。神崎に頼む以上、キチンと経緯を話しておくべきだと、自然にそんな気持ちになったのである。

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