見出し画像

【百寿コンシェルジュ・神崎眞のエピソードファイル】認知症介護の迷宮(3)

その日、義母を連れ立って病院の正面玄関を入ると、夫と同年代くらいの、それらしい人物が近づいてきた。 

「田中さんですか?」
「はい、田中です」
「先日はお電話でどうも。神崎です」

続けて、義母に目線を合わせて会釈する。

「こんにちは。わたし、息子さんの友人で神崎といいます。今日はいいお天気ですよねぇ」

義母に対しては夫の友人。病院に対しては、悠子の知り合いの社会福祉士という立場で付き添ってもらうことを事前に電話で取り決めていた。悠子は、それにしてもなりきっている、と思った。

三人で精神科の外来受付に向かう途中も、神崎は義母の手を取り、おぼつかない足取りを支えながら世間話をしている。目的地に着くと、受付に診察カードを出そうと向かう悠子に神崎がささやいた。

「これ、読んでおいてください」

渡された紙にはこんなことが記されていた。

『受付にこの封筒を渡して、カルテと一緒に事前に主治医に渡してほしいと頼んでください。中には、お母さまの診察の後で(お母さまのいないところで)相談の時間を取ってほしい旨、書いてあります』

果たして、義母の診察時間が来ると、足取りの緩やかなふたりに先んじて、神崎は主治医と話をつけてくれた。通り一遍の診察を終えると、主治医は義母に伝えた。

「ご家族とちょっとお話がありますので、受付のところで待っていていただけますか」

もじもじする義母を悠子が促すように立たせ、付添いながら一旦診察室を後にした。どうにか義母を言い聞かせて診察室に戻る。

「そんな状況がもう半年も続いていて、彼女も限界なのです。ご主人とも、昨夜、電話で話しました。今日はどうしても外せない仕事があったので私が代わりに来たというわけです。なんとか、入院に向けてお力添えを戴けませんか、先生。この通り、よろしくお願いします」

途中で戻ってきた悠子に、主治医が訊いた。

「神崎さんからいま聴きましたが、どうです? お母さんをご自宅で見ていくことはキツいですか?」
「正直、もうどうしていいかわかりません。いつまでこの状態が続くのかと考えると、もう頭がおかしくなりそうで…」
「そうですか…。わかりました。入院の予約を入れましょう。ご本人はどうですかね? 納得しそうですか?」

神崎が一瞬、悠子に励ますような視線をやった。

「いえ、こちらに来る時もいつも駄々をこねるので、入院なんて言ったら強硬に抵抗しそうな気がします」
「そうですか…」

神崎が割って入る。

「先生、お願いです。彼女を助けてやってください。ご主人もそれを希望してます。本人が同意しなくても、実の子どもがそれを希望すれば入院可能という話を聞いたことがあります。そうじゃないんですか、先生」
「保護入院ですね。次回、ご主人は一緒に来られそうですかねぇ」
「いや。お言葉ですが先生。私が見る限り、次回とか、そんな悠長なことを言ってる状況じゃないと思うんです。ご主人だって、実の母親を殺したいと思ったって言ってるくらいなんですから。彼女はそんな思いを毎日抱えながら暮らしているんですよ。一日も早く入院できるように助けてやってください。お願いです。助けてください」

主治医が悠子に目をやった。髪も整えておらず、化粧のノリも悪い。目の下の隈が痛々しいほどだ。

その時、診察室のドアが音もなく弱弱しく開いた。義母である。

「ねぇ、おかあさん、お昼まだかしらぁ。もうおなかがすいちゃって。お昼ご飯はぁ」

悠子が席を立ち、義母をなだめながら退室した。
その様子を見た主治医が改めて言った。

「わかりました。入院でいきましょう。ちょっと待ってください」

主治医は受話器を取ると病棟の状況を確認し、優先的に入院させたい患者がある旨を相手に伝えた。電話を終えた主治医が説明する。

「この後、ちょっと医療相談室に行って、相談員と話していただけますか? かなり入院待ちの患者さんが多いみたいで、普通にいくと3ヵ月はかかかってしまいそうなのですが、状況により前倒しすることもできないわけではないので。私のほうからは、できるだけ早く入院させるべきと伝えて予約を入れてありますから、あとは相談室の判断ということになります」
「そうですか! ありがとうございます。早速行ってみます」

診察室を出た神崎と、義母をなだめていた悠子が合流。神崎が主治医の入院についての同意を得られたことと、この後の流れを素早く伝える。悠子は少しだけだが緊張の糸がほぐれ、目を細めて、すがるように神崎を見た。包み込むような笑顔にホッとする。

「大丈夫です。何の問題もありません。お母さまのほうは落ち着いてますか?」
「それが…。お昼、お昼ってどうしようもないんで、下の食堂で何か食べさせようと思うんです」
「そうですか。どうしましょうか。私に任せていただければ、医療相談室と話しますよ。一日も早く入院できるように」
「ええ。どうかお願いします」
「わかりました。任せてください。また後ほど、正面玄関のあたりで落ち合いましょう」
「わかりました。よろしくお願いします」

40分後のロビー。満腹感で睡魔が襲ったのか、鼻歌交じりにウトウトする義母を尻目に、悠子は神崎の話に聞き入った。

「週明けの月曜日、入院です。ご夫婦が限界まで追い込まれている状況。ご主人が実の母親を殺めたいとまで思い詰めている状況。家族間の哀しい事件を起こさないためにも、というこちらの思いを相談員がわかってくれたようです。たまたま今日の夕方に、入院調整の会議があるらしく、そこで田中さんのお母さまを最優先で入院させる方向で動いてくれると言ってくれました。確定させて、18時までには電話をくれるそうです」
「本当ですか! そんなに早く?」
「それまで、あと少しだけがんばれますか?」
「はい。いついつまでという具体的な期限がわかれば、気持ちに張りが出てきてがんばれます」
「それはよかったです。この半年、そのゴールが見えなかったですものねぇ」
「ありがとうございます。神崎さんのおかげです。神崎さんがついてきてくださらなかったら、ずぅ~っとこのままの状態が続いて、本当に私、もうダメになってたと思います」

悠子の頬に、とめどなく涙が伝ってくる。

「いや、まだ始まったばかりです。まだ安心するのは早いですよ。やるべきことが残っていますからね」
「はい。ごめんなさい」
「そんな、謝ることはありませんよ。もとはと言えば、悠子さんが勇気を出して電話をかけてくださったから。だからこそ、少しずつ良いほうへ進んでいるんだと思いますよ。ご自分の力で切り開いたんです、はい」

それから神崎は、悠子に今後の段取りをガイドした。入院のしおりと、入院に係る提出書類を手渡しながら、入院確定の連絡が入り次第、悠子に電話を入れること、夫のほうへも状況を伝えておくこと、入院に際しては夫の立会いと署名が必要となること。そんなこんなを重厚感のある低音に乗せて伝えてくれた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?