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カッコ付きの「インクルーシブ」なデザインと都市公園――宮下パーク特集②

前回の記事では、宮下パークを眺めてその雑感について書いた。その際に「デザインとダイバーシティの関係性」について感考えようと思った。特に①デザインの機能が果たすべき多様性に対する意識の薄さ②逆にデザインを使った演出としての多様性への違和感という2点が気になったので、本を参考にしながら宮下パークとの関係性からまとめてみた。


私は今まで「ダイバーシティに配慮したデザイン」と聞くと「ユニバーサルデザイン」というものがあることだけは把握していた。もう少し前にさかのぼると「バリアフリー」なんてのもよく広告でみたが、これは少し古臭い印象もある。
現在、多様性とデザインの関係性を指す概念として欧米で主流なのが「インクルーシブデザイン」と呼ばれるものである。

1.インクルーシブデザインとは何なのか

まず、インクルーシブデザインとは一体何なのか、日本でよく聞くユニバーサルデザインやバリアフリーとは何が異なるのか?という疑問にあたる。結論から言うと、インクルーシブデザインとユニバーサルデザイン、ならびにバリアフリーは明確に異なる概念である。というより、目的は同じでありながらも、アプローチが明確に異なる概念なのだ。


まず、バリアフリーは言葉の通り「障壁を外す」という発想からきている。特に街づくりや施設設計に用いられ、障害者や高齢者、妊婦などのユーザーに障壁となるような要素を取り除くことであり、既にあるモノへの追加でおこなう対処という姿勢に近い。それに対し、ユニバーサルデザインやインクルーシブデザインはモノを生み出す前のデザインの段階から「すべての人に向けた」設計とすることにある。

では、ユニバーサルデザインとインクルーシブデザインの違いとは何か。
このことは『「インクルーシブデザイン」という発想―排除しないプロセスのデザイン』(ジュリア・カセム)という書籍に詳しい。少し長くなるがその一部をまとめる。


ユニバーサルデザインもインクルーシブデザインも、「デザインを排除ではなくインクルージョンのための道具」とすることに最終的な目的がある。その中でユニバーサルデザインは「可能な限りすべての人々に、デザイン上の特別な変更や適応をすることなく使用を可能とするプロダクトと生活環境のデザイン」と定義される。象徴的なのは守るべきガイドラインとして「7原則」が定められていることである。しかし、人々の価値観は時代を通じて変化するし、さまざまな状況下において、デザインはいともたやすく誰かを排除することがある。ひとつのデザインが完全に「普遍的 universal」であることは現実的ではなく、ユニバーサルデザインはこの「変化」に弱いとされる。

また、ガイドラインによる縛りや「均一性」という印象を抱かせるユニバーサルデザインは、欧米のデザイナーには特に避けられがちである。逆に日本では特に公共空間においてユニバーサルデザインのプロセスは比較的受け入れられており、「公共空間においては、ユニバーサルデザインの表現の多くは建物環境のガイドラインを優先させる官僚的文化により、審美的側面よりも機能性、デザインの卓越性よりもコンプライアンスが全てのレベルにおいて優先されてきた。」という。ただし近年では震災以後その限界が日本でも見え始めている。

さて、一方のインクルーシブデザインはというと、持続可能性やホリスティックなアプローチを前提とし、モノのデザインだけでなく「従来のデザインのプロセスを再構成すること」も含めている。つまり、形式的なやり方にとらわれず、むしろプロセスに対して懐疑的な態度で見つめ、どのような状況下でデザインによる排除が起こっているのかを理解することから始まる、対応型の概念なのだ。そのため、インクルーシブデザインはプロダクトデザインだけでなくサービスやコミュニケーションデザインの領域でも積極的に取り入れられる概念でもある。

デザインによる排除とはどのようなものか。
わかりやすい例としてデンマークのグラフィックデザイナー、スーザン・コーフォールドによって一九六八年にデザインされた車いすに乗った人のシンボルマークのことがあげられている。これは「車いす利用者が受動的で社会に依存していることを暗示するものであり、問題が車いすによるアクセスがいいかどうかという移動性の視点を何よりも重視してそれ以上、排除の問題を取り扱っていないということから批判されてきた」。彼らの感情を無視しながら「スロープをつくれば問題は解決!」といったように。

他にも、世の中の「女性向け」の自動車が、彼女らの身体的特徴に適したものでなく、ただ車体をピンク色にしあただけであるケース。車いす利用女性用の下着が、審美性に欠けるものばかりであり、とある女性はどれだけ履きづらくても一般向けの下着を身に着けたいというケースなど、デザインによる排除を懸念するならば機能性だけでなく審美性についても考えなければいけない。その時デザイナーが働かすべき想像力はユーザーの感情にまで至るのだ。
このようにモノだけでは解決できない、言語・文化・感情・経済的な排除の可能性をプロセスから見つめつつ対処していくことがインクルーシブデザインのアプローチなのである。

2.「公園」とユニバーサルデザイン

この章を読んでいて特に興味深かったのは「日本の公共空間」とユニバーサルデザインの関係性だ。官僚的システムとユニバーサルデザインのガイドライン・コンプラ主義に親和性があるという。
ちなみに宮下パークは、名称は「渋田区立宮下公園」であるものの、都立公園には平成15年から「指定管理者制度」というものが制定され民間企業が管理を行っている。この制度に関して、都のホームページにはこのようにある。

指定管理者制度は、住民サービスの向上と経費削減を図るため、公の施設の管理について民間事業者等の参入を可能とするもので、平成15年6月地方自治法が改正され創設されました。
都立公園等では、施設の管理について創意工夫ある企画や効率的な運営などにより、利用者の多様なニーズに応え、質の高いサービスの提供を図り、効果的・効率的な管理運営を目指していくため、指定管理者制度を導入しています。

宮下公園に関しては三井不動産と西武造園が宮下公園パートナーズとして公園の管理を行っている。もちろん好き勝手やっていいというわけではなく、毎年の評価委員会の評価、中間年度には選定委員によるヒアリングや審査が入る。

公共空間ではあるが、私企業の管理下にある都立公園。特に宮下パークはもはや「複合型商業施設」であるから、その公私の括りは曖昧なところだ。
なお、資料によればこの評価の目的は「管理の履行状況、安全管理、法令遵守、サービスの利用状況、利用者満足度、 行政目的の達成」とある。あくまで管理運営上の課題を洗い出すためのもので、デザインの問題性などは言及されることはない。

では、公園におけるデザインはどこで評価されるのか。
これも何もないわけではなく、国土交通省ホームページにはその法とガイドラインがまとまっている。


ただし、ご覧いただければわかるが、ここに出てくる表現は「バリアフリー」「ユニバーサルデザイン」のみである。「インクルーシブデザイン」という単語を色々と探してみたが、最新の行動計画である「ユニバーサルデザイン2020行動計画」においてもこれは出てこない。代わりに「心のバリアフリー」という言葉が出てくるが、これは「思いやり」などの一般市民の意識と啓蒙・教育問題としての概念である。先ほど掲げた言語・文化・感情の問題は全体的に触れられていない。
つまり日本における公園デザインと多様性の問題は「ガイドラインを遵守しているかどうか」に重点が置かれたユニバーサルデザインの問題であり、デザイナーの自由で豊かなアイデアによってインクルーシブデザインを実行するという態度とは遠いところにあるとわかる。
これは単なる公的な資料の言葉上の問題であるといえるだろうか。インクルーシブデザインはユニバーサルデザインの限界に対する「プロセスへの反省的な態度」にこそ本質がある。ガイドラインに従ってさえいればいいという態度やプロダクトにのみデザインの問題を限定しかねない。

(追記:公園における「ユニバーサルデザイン」の先の「インクルーシブデザイン」は、「公園を核とした街づくり」を意味するという文書も見かけた。ここでは「より広い範囲」としてユニバーサルデザインとインクルーシブデザインを区別しているので、ここでの概念とは微妙に違ってくる。

https://www.city.kumamoto.jp/common/UploadFileDsp.aspx?c_id=5&id=2819&sub_id=57&flid=71668)


3.「多様性」マーケティングとその外側

同書ではデザイン史家のナイジェル・ホワイトリー氏のこのような言葉を引用している

マーケティングの顧客分類は社会の多元的共存とは同義ではない。十分なお金がなければ市場で力を持つことができない社会の多くのグループ、すなわち、障がい者や高齢者、ある一定の割合を占めるエスニックマイノリティや増え続けるアンダークラスと呼ばれる人々は所得(ここでは自由に使える可処分所得を意味する)が極めて少ない。ゆえに市場から排除されるのである。消費者中心のデザインはこうした人々のニーズには応えない、否、応えられないのである。なぜならこうした人々から利益が生み出せないからだ。


デザインは80年代の商業主義と結びつき、消費者に対してそれが必要であろうとなかろうと「創造を通じて新しい欲望を刺激するものであり、製品を売るためのもの」になりさがってしまった。デザインによってプロダクトやサービスに付加価値をつけることでより大きな利益を目指す。デザインと市場に強い結びつきがある以上、市場における弱者への配慮は少なくなる。

宮下パークのコンセプトデザインの目的も、ハイブランド、渋谷らしくない飲み屋横丁、人生を変えると掲げられた体験型本屋、芝生の上で開放的なスターバックス…といった90店舗におよぶラインナップをユーザーに消費してもらうことにある。いずれもそれ自体が付加価値の権化ともいえるようなものだが、それらを「ごちゃっと自由に」組み合わせた複合型施設というコンセプトでまとめている。

デザインの話からは逸れるが、こうした一つの建物が多様な用途を持つ施設・街は「ミクスドユース」と表現される。代表的な施設は東京ミッドタウンだ。そして、HPにもあるように、宮下パークはこのミクスドユーツ施設を「ダイバーシティの街、渋谷」と結びつけて「ごちゃっと自由に、ここは公園のASHITA」や「MIXXXX&MEEET!」というコンセプトを掲げている。

いわば「誰もの欲望をかなえることができる施設」としてダイバーシティを引用している。だが、実際にはその「ダイバーシティ」からは市場から排除された存在を取り除き、ある程度の富裕層、背伸びしたい若者にターゲットを絞ったマーケティングを行っている。このことは、最上階に公園施設を設け、再度に展開されるベンチは「サポートベンチ」とよばれる、限定的な人しか座ることのできないものを揃えていることからもよくわかる。

宮下パークを訪れた顧客が「ダイバーシティ」について深く考えるということもないだろうから(反面教師として思いをはせることはあるかもしれない)啓蒙のためのマーケティング、という言い訳も苦しい。
果たして、「一部の人」のニーズに「何でも」応える施設が、多様性ある施設といえるのだろうか。


4.インクルーシブ(にみえる)もの

前回の記事でもふれたように、宮下パークはそのコンセプトだけでなくビジュアル面でもダイバーシティやインクルージョンをアピールしている。最も代表的なのが「すべて違う種類の草木が並べられた花壇」であって、そのほか各所にちりばめられたグラフィティ的イラストなど、演出として「ごちゃっと=インクルーシブ」を表現しているように思える。

しかし、それは見た目からして違和感を感じる。シンプルに「美しくない」のだ。異なる植物が隣り合う様子は自然な景観ともいえず、しかし空間におけるアクセントと捉えるには量が多すぎる。意図的に統一感をなくしているのだろうが、中途半端な人工っぽさという印象どまりだ。

これは単に見た目の問題というだけでなく、機能の問題ともリンクしている。
インクルーシブデザインの特徴を思い出すと、それはひとつひとつのデザイン問題についてプロセスから見直す、問題予測と対応型の手法であった。さらに利用者の文化・感情まで考えるならば、それぞれの個性や身体的特徴に合わせてデザインを変更する必要がある。

つまり、インクルーシブデザインは問題に対応した結果としてインクルージョンに寄与するのであり、ひとつのデザインそのものを普遍的で「誰もに受け入れられるもの」へと目指すわけではない。この思想はユニバーサル(普遍的な)デザインの考え方である。ひとつのデザインそのものを「万人に受け入れられるもの」とすることはできない。

よって、一つの施設のコンセプトで「ダイバーシティやインクルージョンを象徴する施設です」と言い張ることも本来はできないはずで、まさにユニバーサルデザインが目指した「普遍性」を目指す考え方と同じといえる。

コンセプトやビジュアルで「インクルーシブ」を人工的に演出しても、それは「インクルーシブにみえるもの」でしかなく、決してインクルージョンを目指しているといえない。事実、公園デザインにおけるインクルージョンはユニバーサルデザインにおけるコンプラ問題として片づけられがちなのだ。公共空間におけるインクルーシブを、見た目上の問題ではなく機能としていかに「デザイン」できるか、問題はまだまだ山積みな気がする。

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