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新たな解釈の可能性に開いていること

執筆者名:舟橋友香
(奈良教育大学)

こんにちは,奈良教育大学の舟橋友香です.
数学教育学を専門としています.
日本科学教育学会(JSSE)への参加がきっかけで科学教育に携わる皆さまと交流するようになり,そのご縁で「科学教育Advent Calendar 2023」の企画に参加させていただくことになりました.今回は,「代替世界の可能性」ということをテーマにしたいと思います.


はじめに

「女性研究者の割合を◯%以上とする」
「理事会や委員会等における女性役員の比率が◯%になるように女性の登用に努める」
 
少し前の私は,「女性」を掲げられることに嫌悪感をもっていました.
私は,「女性」だから採用されるのではなく,
「あなた」と働きたいから採用したい,と言われたい.
「あなた」の意見で組織をよくしていきたいから協力して欲しい,と言われたい.
 
今は,変わらない部分もあるけれど,少しだけ柔軟に捉えられるようになりました.
そのきっかけ,思うことを書いてみたいと思います.

「当たり前」に代わる世界の存在

今,我が家には2人の息子たちがいます.
同じ景色を見ているし,同じように考えているとつい思ってしまいますが,
彼らが日々のやりとりの中で教えてくれる世界は,
決して同じではないと気付かされます.
 
保育園からの帰りの車内.
「どうして,信号は色が変わるの?」
(え…どうしよう,電気っていうものも知らないのに,どう説明したらいいんだ…)
即座に返事ができない私に,息子が教えてくれました.
 
「きっとね,信号の中に小人さんがいてね,それで色を変えてくれているんだよ.」
「大変だね,小人さん」
「小人さん,ありがと!」
 
電気,制御システム,様々な信号に関わる知識を持ち合わせていないけれど,幼児なりに現象に対する解釈を構築し,世界を捉えているのだと強く印象づけられた瞬間でした.
同時に,科学的に説明される世界と,息子の解釈で垣間見る感謝に満ちた世界は,どちらが豊かなんだろうか...と考えさせられました.
 
 
息子たちが数の概念を獲得していく過程に立ち会うことには,文献を通して知った世界を確認する以上の発見があります.
 
絵本にかいてある車がいくつあるか数える2歳9ヶ月の息子.
「ななつ,はち,きゅう,じゅう,じゅう,に,し,し,ご」
「いくつあった?」
「にこ あった」
 
同じ車を何回も数え(1対1対応ができていない)
数詞はそれぞれの音が独立に獲得されていて系列をなしておらず
最後の数詞が集合の大きさを表すと捉えられていない.
「いくつあるか数える」ことは,一つ一つの過程についての沢山の経験を通して獲得されるのだと実感します.

さらに,普段のやりとりの中に,
「5もあった!」
という言葉をよく聞く時期がありました.
よくよく状況と照らしてみると,実際には彼が見ているものの数は「5」ではないのですが,なぜか「5もあったね」と言います.
 
そう,彼にとって「5」は,とても大きなものの象徴であり「5もあった」というのは,こんなに沢山ある!という感激した気持ちを伝えてくれているものでした.「5」という一つの数は,系列の中の一要素ではなく,強い魅力をもつものとして彼の中にあったのです.
 
森田真生さんが文をかき,脇阪克二さんが絵をかいた『アリになった数学者』という絵本があります.ある数学者がアリになり,アリたちとのやりとりを通して「人間の数学」について考え感じていくお話.
アリは,数学者にこう語りかけます.
 
“わたしたちにとって数には,色や輝きや動きがあるの.”
 
幼き子が感じている数には,色や輝きや動きがあるのかもしれない.
なんて素敵な世界を見ているんだろう.
数学という対象でさえも,私たちの「当たり前」に代わる世界がある可能性を,息子たちは気づかせてくれます.

(森田真生文・脇阪克二絵, アリになった数学者, 福音館書店, 2018年. https://www.fukuinkan.co.jp/book/?id=5757

知らないことに,溢れている

他者の声に耳を傾けてみると,
そこには私の知らない世界の捉え方に溢れていることに気づきます.
 
手話通訳をされている和田夏実さんの言葉は,日本語では言及し得ない領域をもつ手話という言語を介したコミュニケーションの豊かさや魅力を教えてくれます.

「美しい,景色」と言葉だけを並べることはできるんですけど,もちろん.
私の理想ですけどその人の中に美しい花畑がみえてるのであれば,それをどうにか,こう伝えたい.
手話という言語メディアだと図像化したり映像化することがとても得意な言語なので,「美しい景色」っていったときに,例えば,花道があって,前に並んでできているっていうような手の動かし方もできれば,枝垂れ桜が下に垂れ下がってるっていうような表現もできる.
視空間が自在なので空間配置を伝えられたり,映像的に伝えることもできる

TAKRAM RADIO ,Vol.161 「感覚」移入する空間芸術〜手話から人の水脈を探る,https://spinear.com/original-podcasts/takram-radio/?utm_source=takram-radio&utm_medium=website&utm_campaign=share-link

脳性麻痺という障害を持ちながら小児科医でもあり,研究者でもある熊谷晋一郎さんの言葉には,人と人との関わり合いについての示唆に富んでいます.
例えば,リハビリでの描写を通して,人が人に介入するという行為は,容易に暴力へと転じうるし,能動/受動という捉えではあまりに単純であることも教えてくれます.これは,教室での教師と子ども,子ども同士のやりとりとも重なるのではないでしょうか.

トレーナーが私の腕を伸ばすとき,トレイナーの「腕を引っ張る」という動きと,私の「腕が伸びる」という動きはセットになっている.ここで,「腕を引っ張る」が能動的運動で,「腕が伸びる」というのは能動的運動によって引き起こされた受動的運動のように思われがちである.それは間違いではないけれど,それほど単純ではない.
(中略)
私の動きによってトレイナーの動きをある程度操ることができる.例えば,腕を引っ張ってほしければ,わずかに私の腕をトレイナーの側に差し出して,もどかしそうにぎこちなく私の腕を伸ばそうとすればよい.そうすると,トレイナーは催眠がかかったように,私の腕を伸ばしにかかるだろう.
このように互いが相手の腕の動きを探り合っているときは,二人の意識の中で「私の腕」と「トレイナーの腕」が,これから関係を取り結ぼうとする接触点としてまなざされている.

熊谷晋一郎, リハビリの夜, 医学書院, 2009年. https://www.igaku-shoin.co.jp/book/detail/81246

おわりに

ある人がみている世界は,
他の人に気づきをもたらす可能性がある.
しかも誰一人として同じ世界をみていることはないし,
その人のみている世界もまた更新され続けている.
 
そんなことに意識が向いてから,たまたま私が女性であることにも意味があるのかもしれないと考えるようになりました.
思えばある日のこと,授業中にずっと伏していた学生に苛立っている先生がいました.
「あー,でも生理で辛いのかもしれないですね.」
私のその一言に,とても驚かれたことがありました.
 
ある見方は世界の切り取り方のひとつに過ぎないと,
代替世界の可能性に開いているとともに,
新たな解釈への気づきをもたらしてくれる声に
日々繊細でありたいと感じています.

※本記事は「科学教育 Advent Calendar 2023」の企画において寄稿されたものです。
※本記事の内容や主張は執筆者によるものであり、本記事の掲載をもってJAASや教育対話促進プロジェクトがその内容や立場を支持するものではございません。

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