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わたし,継接ぎのわたし。ヨルシカ「盗作」レビュー

長い長い梅雨が漸く明けるかという頃、一足早く夏が訪れた。

ヨルシカ「盗作」

―また夏が来た。この作品からは確かに夏の匂いがしている。

そう思った。

 本作「盗作」は,徹底的にコンセプチャルな作品を作るバンド,ヨルシカが放つ3枚目のオリジナルアルバムだ。全14曲である男の物語をつづり,描いている。また初回盤には,補完的な小説130頁とベートーヴェンのピアノソナタ「月光」が収録されている。

ここまでは,前作と前々作の「エルマ」や「だから僕は音楽を辞めた」でも用いた技法だし,彼らの作品に対するこだわりと情熱の表れだ。作者性をとことん排除し狂気的なまでに作品を作品として独立させる方法。

本作でも,その効果はいかんなく発揮されており,作品への没入感は音楽作品の中では群を抜いている。

しかし,音楽作品を供出するアーティストがリリースする作品としてはいささか自己批評的だし,センシティブなタイトルだと思う。だが,それも当然かもしれない。本作で描かれている男は,音楽家であり泥棒なのである。しかも音楽を盗む泥棒だ。

 このあたりが非常に憎い。限定版の小説を読めば答え合わせは簡単だが,こんなタイトルつけられれば,実はヨルシカも…などと勘繰りたくなるのが人情だ。その含みを感じて聴いてしまうことそれ自体がもはやn-bunaの目論見かのように思えてくる。そしてこの疑問符が没入感へ一役買っている。

 小説付属の初回盤ではなく音楽だけを純粋に聴いた場合ならより強く意識するようになる…そういった意図的な''余白''を感じる。私はこういう余白を感じる作品が大好きだ。余白がある曲は解釈の幅が広い。ぴったり共感はできないかもしれないが,そのぶん時代や時期に左右されないし解釈や推しポイントが経年変化する。名作と語り継がれる作品の第一条件ではないかとすら思う。

余白を余白のまま楽しむのいいし,より深く掘り下げたいのなら小説を読ことMVを見ることも強く勧めたい。

先にも述べたが,アルバムは音楽を盗作する男の物語を10曲の歌とプロローグの意図もある4曲のインストでつづる。

M1「音楽泥棒の自白」はベートヴェンのピアノソナタ「月光」をサンプリングした意味深なインストだ。クラシックには明るくないが,おそらく使われているのは,第1章の繰り返しのフレーズだろう。この曲は個人的には,同じくベートーヴェン作曲の「悲愴」という曲よりも悲愴感があふれていると思う。青白い月夜に照らされた孤独で美しく悲しい雰囲気が男の人物背景を物語っているようだと思った。

M2は「昼鳶」ー(ヒルトビ)要は空き巣のとこである。イントロのアコースティックギターのスラップが心地いい。やがて歌出したヴォーカルに全身の肌が粟立った。全てを嫉むような低くてこもった声。吐き捨てるような舌打ち。男は何かを渇望していることが伺える。また,これまでのどんな曲とも違うアレンジ…そして何よりヴォーカルsuisの表現の引き出しに脱帽する。

息つく暇もなくM3「春ひさぎ」が始まる。この曲はコンポーザーのn-buna曰く,

売春の隠語である。それは、ここでは「商売としての音楽」のメタファーとして機能する。
悲しいことだと思わないか。現実の売春よりもっと馬鹿らしい。俺たちは生活の為にプライドを削り、大衆に寄せてテーマを選び、ポップなメロディを模索する。綺麗に言語化されたわかりやすい作品を作る。音楽という形にアウトプットした自分自身を、こうして君たちに安売りしている。
俺はそれを春ひさぎと呼ぶ。

だそうだ。なるほど売春というだけあって楽曲はとても妖しい雰囲気である。そしてこの曲が大衆に寄せたテーマ…(聴きやすいコード進行やアレンジ,受けられやすい声音,キャッチ―なメロ,一般的にオシャレなMV)ではない点が,「商業音楽」と「自分の価値観」との整合性をとるための当てつけというか…自分が気持ちよくなるものと人に聴かせるものの折り合いを自分側に寄せるn-bunaのプライドの様な曲な気がするし,主人公の男が劇中でたびたび語る芸術の価値や作品の本質についての価値観を体現する一曲なのではないかと思う。

M4は「爆弾魔」2018年発表のミニアルバム「負け犬にアンコールはいらない」からのリアレンジとなっている。ちなみに「負け犬にアンコールはいらない」はデビュー作品「夏草が邪魔をする」と世界観を共有する作品で,’’生まれ変わり’’をテーマにしていた。爆弾ですべてを無かったことにしたいというその願いが,その破壊衝動が,アップデートされてこの作品に再録されること「エモさ」は言わずもがなだ。また当時から私は大好きな楽曲なのだが,心の充足という意味でもう二度と得られない,得難いものを心から求めている様,手に入らないならどうにでもなってしまえという破壊衝動に近い渇望は,現代人なら少なからず抱いたことのあるのではないかと思う。そして、それはこの物語の主人公も多分に漏れず抱いていた感情だった。壊れる瞬間が美しい。一瞬の美しさ。花火のように消え去ってくれればいっそ楽だったのに。

M5はインスト作品「青年期,空き巣」 こちらはグリーリングの「朝」がサンプリングされている。クラシックからのサンプリングが多いのは,盗作のコンセプトに基づいてのことの,その事実があったとして,果たしてこの楽曲を通して感じた感動や美しさは揺らぐのだろうか?という問いかけがちりばめられているからだと思う。私は常々自分は情報を食らっている(捉われすぎてる)と思うタチなので,何も知らないまま一聴した際のこの曲のハネたリズムやテレキャスの音色をかっこいいと思った心を大切にしたい。

M6「レプリカント」タイトルはおそらく映画「ブレードランナー」及び原作となるSF小説「電気羊はアンドロイドの夢を見るか?」に登場する人造人間「レプリカント」からだ。タイトル,サウンド,詞の内容,二人の歌唱スタイル…一聴した際,今作の中で一番お気に入りだったのがこの曲だった。ここまでの楽曲は今までのヨルシカを文字通り破壊したような挑戦的なサウンドが続いていたが,この曲は今までのパブリックイメージになっていたヨルシカを感じた。もちろんいい意味で。イントロのミュートされたギターのカッティングが心音のように聞こえるところからもう心を鷲掴みにされている。また主人公の男の日記のような,胸の内を徒然に吐き出し続けるような言葉と価値の思想の勢いが疾走感のある芯のあるファルセットで表現されている。

 そしてこの思想の波がどこか「ブレードランナー」のレプリカントたちを連想させられるところに驚嘆してしまう。

「神様だって作品なんだから 僕らみんなレプリカだ」
「心は脳の信号なんだから 愛もみんなレプリカだ」/「いつか季節が過ぎ去って 思い出ばかりが募って」

自分の出自を知って行動を起こし,感情を自覚して戸惑っていたロイ・バッディよう。思い出をデッカードに託して果てたロイのよう。

「僕らの心以外は偽物だ 言葉以外は偽物だ この世の全部は主観なんだから 君もみんなレプリカだ」/「さよならだって投げ出して このまま遠く逃げ出して」

これは,ラストシーンのデッカードを彷彿とさせるし,主人公の男の思考そのものだ。結局,あの映画のレプリカントたちは自分が「人間の紛い物」であることを知っていて,人間とは何か?自分との違いはどこか,そのうえで自分は何に生きるべきかどう生きるべきかどの価値観に従うか,各々が,紛い物なりに価値を選択し,それぞれの生を全うしていたんだと思う。それこそオリジナルの人間(神)が生み出した価値の模倣,人生の盗作,偽物の足掻き,この作品の根底に流れる思想を体現した楽曲だろうと思う。

M7「花人局」(ハナモタセ)…美人局からくる造語だ。男の妻が花の香だけを残して忽然と消えてしまった(帰らぬ人)ことを表現している楽曲だ。私はこの曲は,「言って。」のセルフオマージュも含蓄されているのではないかと邪推している。自分の作品への当てつけと破壊衝動だけでここまで突き進んできていたような男が,唯一大切にしていたもの。花の香りがする人だった。ここからアルバムの楽曲の雰囲気も男が書きたかったものも変化しているような気がする。

M8「朱夏期,音楽泥棒」引用は,エリック・サティの「ジムノペディ」ゆっくりと○○の感情をこめてという指示付きで有名なクラシックだ。夏が朱に染まる…晩夏を表す造語だろう。人生はしばしば四季や一日の時間になぞらえられる。男が壮年期になり,ゆっくり,狡猾に何を成そうとしているのか核心に迫る場面転換を告げるインスト曲。

M9「盗作」M1の独白の内容を明確に詰め込んだ楽曲。男の思想,背景,渇望,願望,そしてこのアルバムが出来上がる種明かしとなる曲だ。アルバム前半の吐き捨てるような攻撃的な情熱とは違い,一つ一つ感情や考えを俯瞰するようなヴォーカル表現がとても秀逸で,インタビューのような第三者視点で楽曲をとらえらるようになっている。またもsuisのバケモノのような表現に腰を抜かす。

M10「思想犯」…タイトルはおそらくオーウェルのSF小説「1984」に登場する政府(ビッグブラザーという政治体制)へ反抗思想を持つものの総称から。M9に続き,男の破壊衝動と,作品へのスタンスが描かれる楽曲。MVがYouTubeで公開された時から一番はまってしまった楽曲だ。Aメロの低くてつぶやくような鬼気迫る表現に鳥肌が立った。

「他人に優しいあんたに この孤独がわかるものか 死にたくないが生きられない だから詩を書いている」/「この孤独よ今詩に変われ」

男は何かに満たされたかった。そして音楽を作って支持されたとき確かに何かが満たされた気がした。しかしそれは,作ったことによって満たされたのか,承認されたことがそうさせたのか,はたまたその地位がそうさせたのか分からなかった。だから男は作ることにした。他人から盗んで作ることにした。徐々に地位を確立したうえで,自分を壊すことにした。有名音楽家の破滅の物語という作品を自分を使って創ることにした。そしてそれは見事に成功する。

M11「逃亡」ジャズポップの様相を呈するリズムとヴォーカルが心地よく,社会的地位を失った男の''逃亡''にしてはあまりにも優雅な楽曲。察するにこの曲は物理的な逃避行の道程ではなく,精神的な逃避行なのではないかと思う。歌われているのはどこか懐古的な美しい夏の夜祭の風景である。私はこう思った。結局彼は,人生をかけた「自分自身」という作品が完成しても満たされなかった。しかし作品が完成してしまったいま,これ以上何か現状の自分を表現するような作品は思いつかなかった。最愛のひともいない。彼は思い出の中にしか書きたいものが見つからなかったのではないだろうか。そして現在から時間を戻すことを「逃亡」と表現したのではないだろうか。

M12「幼少期,思い出の中」最後の場面転換となるインスト曲。男の渇望が少しずつ満たされているようにも聞こえる,木漏れ日の様な夕暮れの涼風のような楽曲。余談だが,海辺に住む私個人としては,夕暮れの藪椿の参道とヒグラシ,潮風の匂いと赤紫の空…そして秋を告げるうろこ雲を連想させる楽曲だ。

M13「夜行」・M14「花に亡霊」

映画タイアップが発表され,先行公開されていた楽曲。当時正直そこまで響かなかった2曲だ。こういった雰囲気の楽曲は食傷気味でM14に至っては「大型タイアップ売れ線お仕事シングル」などと言っていた。しかし,このアルバムの中でこの位置に配置されることで,私の考えが如何に浅はかで愚かだったか思い知った。

 ここまで,泥棒の男は,自分を満たす何かを探し,狡猾に盗んで,再構築して,自分を破壊する機会を虎視眈々と伺い,大衆へウケを安売りしてきた。そんな彼が,茜に染まる夕暮れの街から,思い出の中へ逃避し,夜へ突き進んでいる…つまり最期が近づいているこの段階で,本当に自分のためだけに,自分が美しいと思うものだけを作っている。純粋な夏の匂いしかしない。

曰く,

アルバム全体の流れや構成として意識したのが、昼からだんだん夜に向かっていくということなんです。「昼鳶」から始まって、だんだん夜に向かっていく。夕暮れから「夜行」があって、最後に「花に亡霊」がある。だからこの曲もイメージは夜なんです。こういう歌詞を見ると青空を思い浮かべる人は多いと思うんですけれど、夜の中で夏の情景を思い出している。そういうものが亡霊として見えている。そういうことを思いながら、綺麗な言葉と綺麗なメロディだけで作った。そういう曲です。あとは、川端康成の『化粧の天使たち』の有名な一節で「別れる男に、花の名を一つは教えておきなさい。花は毎年必ず咲きます」という言葉があって。この曲を作る前にそれを「いい言葉だな」と思って見た覚えがあります。この曲の根源的なテーマでもあるんですけれど、「花に亡霊」というタイトルにある亡霊というのは思い出のようなものだと思うんです。花の中に思い出を見出すというか。川端康成の言葉を咀嚼して、そこから、綺麗な言葉だけで楽曲を再構成するという。そういうことをやりました。

 人生は、しばしば四季になぞらえられる。
幼少、青年、壮年、老齢期を春夏秋冬に充てる。
その例えになぞらえるなら,自然の営みと同じで、人生はつまるところ,次の世代へバトンを繋ぐ営みではないかと思う。

端的に、遺伝的な、命をというハナシだけではない。
歴史を連綿と綿ぐとき遺伝情報だけでは伝えきれないモノがある。文化や芸術・感情…思いを繋ぐとことも,バトンをつなぐ,伝えることになるだろう。

現実は物語ではない。しかし、人間は現実を物語として処理する機能を脳に与えられた。人は死ぬ。しかし死は敗北ではない。かつてヘミングウェイはそう言った。ヘミングウェイにとっての勝ち負けが何だったのか、寡聞にしてわたしはそれを知らないが、その言葉が意味するところは理解できる。人間は物語として他者に宿ることができる。人は物語として誰かの身体の中で生き続けることができる。そして、様々に語られることで、他の多くの人間を形作るフィクションの一部になることができる。人が伝えるのは遺伝子だけではない。人が子を作るのは、自らの物語を語り聞かせる身近な他者を求めるからだ。人は聞き手を、もっとも熱心で忠実な聞き手を求めて子を作る。「聞く」というのは勿論比喩であって、その人が子に語る方法は様々だろう。「生き様」というのはフィクションの同義語であり、親が子に見せる生き様の数だけフィクションは生まれる。そしてわたしは作家として、いまここに記しているようにわたし自身のフィクションを語る。この物語があなたの記憶に残るかどうかはわからない。しかし、わたしはその可能性に賭けていまこの文章を書いている。これがわたし。これがわたしというフィクション。わたしはあなたの身体に宿りたい。あなたの口によって更に他者に語り継がれたい。 ー伊藤計劃「人という物語」より

という作家がいたことが,その証左だろう。

となると、この作品は、フィクションは、彼は、そういった流れを経て,漸く満たされたのだと思う。

夏の匂いがしている。

彼の,思い出の,フィクションの,とても綺麗な,夏の匂いがしている。

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