白と黒の服 2


「10、9、8、7、6、5、4、3、2、1」と、するとカウントはおわった。

 気がついたら自分の頭部は白い天井の下で、床に対して、身体に沿った首筋を伝うように垂直に位置していて、眼に映るのは、天井と繋がる白い壁に囲まれた部屋にいまいるのだという事実と、そして自分が身を起こしているベッドに腰掛ける母親の存在であった。母親は目線をその起こされた自分の方に向けた。
「何回も起こしたのに。本当に起きないね。すごいわ」
 その朝一番の声がしたとき、自分は昨日の長旅ともいえる移動をあげた。それが単に仕方のない身体的な現象であろうことを示唆しようとしていたのだ。しかし母親は眼差しの調子を全く変えなかった。そして、
「いや、昔からだよ」と返しながら、ただにやりとした。自分は立ち上がった。そこに浮かび上がりかけた気分を否定するように。そうして階段を降りて、居間のテレビには旅番組のVTRが流れていた。時刻は10時を少し過ぎていた。 
 机の上には数種類のフルーツが盛り付けられた皿と、パンや目玉焼きなどの乗ったプレートが一つずつ、用意されていた。顔を洗ってから座ってそれらを平らげた。ぼんやりと座っていると、母親が「今日は服を買いに行くから」と言った。それで訊くところによれば百貨店に出かけることになったらしい。自分は着替えや準備などをして、母親の運転する車で駅前のほうに向かうことになった。

 昨日、あっちからこっちに(歩いて)来たところの、駅前の方角の風景が、車の車窓から近づいて見えてきた。車の中ではリクエストランキングをカウントダウンする週末のラジオがかかっていた。色々な曲の断片が流れ続けるなか、車窓はずっとかわらない。そこにいる母親と自分の間に特にそれといった会話も起こらずに。そしてそうしているうちに、ぐるっと回って駅をさらに向こう側に越したところに、目的の百貨店があった。暗い駐車場を段々と車は昇っていって、そしてある場所に停車する。そこで車を降りた。コンクリートの匂いが身体にずっしりとした。
 百貨店は同じようなものを、ひとつひとつ区劃するように並べていた。それぞれが一定の距離を保ったマネキンが辺りを埋め尽くしているところを、同じ顔の人たちが通り過ぎっていった。自分もただ通り過ぎていった。
 ○○君は服の干し方が適当だからよれよれのシャツを着ているのだ、そうふと声をあげるように母親が言った。それじゃ見映えもないしそれに安物でも大事に使っていればまあ長持ちするのにねと。自分は、その自分の生活状況のある側面を確かに見透す彼女の眼と、その察知する内容を何の憚りもなくこの特殊な往来の中で○○君に対して発露する彼女の態度を見比べ、ひどく不思議に思った。実際に不思議であった。当の母親は、通り過ぎる周りと同じようにすました顔で何かを語り続けた。そうしているとそこに紳士服の売り場が見えた。

 その売り場と、そこまでの往来との間隙が狭まる瞬間、頭がぼんやりとしながら騒めくのを感じた。大学4年の冬休みで実家に帰っている自分の身の上と、いま百貨店の往来を歩いている○○君とを、ただぼんやりとしながら見比べようとした。それまでと同じようにずっとそこを通り過ぎているのに、その眼前では間隙が広がっていくような感じがした。ふと東京の部屋のなかにいるみたいな気分になった。その部屋の中にある色々なものが、全てそのときの感情や記憶を反映して現れてきた。しかしそれぞれがそこにひとつのぽっかりと浮かんだ穴を開けるように。そうして東京での出来事の断片が、移り変わるようにこの身体に対して通りすぎていって、それに対応して心の色が乱れて行き、浮き沈みを繰り返し、自分はその色を映し出した風景を想像しながらただ歩いた。

「ああ、ここいつ振りだろうね。高校生のとき以来じゃない」
 母親の声に気づいたとき、目の前にはマネキンが鮮やかな服をまとっているのが見えた。自分はただぼんやりとした頭で適当な相槌を打った。ふとポケットからスマホを手に取って、首筋を前傾させながら身をかがめた。指先のディスプレイに色々な視覚情報が点滅した。

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