遥かなる人々 1

 西城秀樹が死んだ。五月のある晴れた日のことだった。その週は月曜日から季節に似合わない猛暑が続き、まだ連休気分になっていた自分の頭をひどくくらくらさせたのを覚えている。大学一年生だった。一年生…

…学生時分のことを語るとなると、いつも困惑してしまう。夢を追い求めて生きるにはあまりにも多くのことが既に決着済みだったし、思い出を抱えて生きるには節操なく過ぎ去っていく日々に振り回されていたからだ。同じことが繰り返されるということは一度となかったと思う。だから前を向ききって生きるということもなく、後ろ向きになりきって生きるということもなかったわけだ。そうして今となってはそこに出てくるすべてはもう過ぎ去った。
 これは一面において救いの言葉であろうーーーすべてはもう過ぎ去った、確かなことだ。大人はみんな、それぞれの前を向ききっているか、それぞれの後ろを向ききっている。昔のことをいかようにも自由に語ることができる。自分もまた、そんな自由な語りを手に入れるために、いくらかの努力をしてきた。その過程でいろいろな体験をした。それについては今までにいろいろと書いてきたし、これからもそうするつもりだ。少なくとも自分は努力をした。だからあの出来事を、私は記録しなければならないのだ。

 人々が何かを語りだすとき、そこに確信犯的な眼差しを見出してしまうときがある。そうした眼差しは場の雰囲気に溶け込んで、人々の関係性を時として深めていったり、また浅くしたりする。自分は自分の語りに対してこの確信犯の眼差しを見出すようになってから、対人関係に常に一毫の不快を覚えるようになった。他人と他人の間に常に隔たりがあって、埋まらない溝を介して関わりあうように、自分と自分の間に距離を感じるようになった。一体、いつからなのだろう。
 話の筋がこじれそうなので、冒頭の西城秀樹についての話に戻る。西城秀樹はある意味においては、戦後のこの国のアメリカ文化の流入と、そしてフリー・ウィル党による政治を象徴するものだった。もし疑念を持たれるのであれば、例えば「ヤングマン」をいま街中で流してみてほしい。きっと秘密警察からの職質という素敵な結果を招くはずだ。ともあれ、彼が死んだ私の学生時代、リバティ党による革命が起こった。このふたつがなんだか心のなかでひとつに結合されている。西城秀樹の死、フリー・ウィル党政治の崩壊、そして…

 ところで当時、大学でまわりの人はたいてい、みんなリバティ党のことを歓迎していた。一部のひねくれたものの見方をする人たちが、ツイッターでどちらともつかない冷笑的な批判を書いていた。彼らが今何をしてどこにいるのかはしらない。どうでもいいことだ。われわれは、戦後という時代において多くのことを忘却しきっていたし、そこから目覚めさせてくれたのがリバティ党であることは疑いようのない事実なのだから。私は政治について批評したいわけではないのだ。ただ西城秀樹と聞いて思い起こされる色々なものを、自分の心の内で媒介している存在がある。それは中学のときの話で、そしてその存在を自分は10年程意図的に忘却していた。そうして思い出すことができるようになってからもいまだ誰にも語っていない。そのことをいま、記録しようと思う。そのためにまず、あの日のことを語ろう。

 それは、大学を卒業したばかりのある日だった。まだ内戦が落ち着いていなくって、街はうんと騒がしかった。アパートを出ると私は電車に乗って渋谷駅のホームに降りた。警官とルンペンと失業者と観光客がごった返す往来をかき分けながら、私はその目的地へと向かった。

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