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早稲田大学短歌会

 私が一浪して入ったのは早稲田大学理工学部建築学科です。第一志望ではなく現役のときは受けなかったのですが、それまで進路については何も言わなかった父が、試験科目にデッサンがあったので(私は中学高校では美術部でした)、試しに受けたらとコソッと言ったので、受けてみたら合格したのです。父は合格と知った途端、ここに入れと強権を発揮して、第一志望校の発表さえ見せてくれませんでした。父は建設会社に勤めていて、私がここに入ることを願っていたのです。

学生会館27号室

 ただ、私にとっては「早稲田」は魅力でした。というのは、詩や短歌が好きで、高校生のときすでに「一路」という結社で短歌を詠んでいました。そして、「短歌」や「短歌研究」などの雑誌で、新感覚の若い歌人が活躍していた「早稲田大学短歌会」のことを知り、憧れていたからです。入学手続きを済ませるや否や、学生会館に跳んで行きました。そして、27号室へ。短歌会の機関紙「27号室通信」の名からそこが部室だと思ったからです。やはりその通りで、そこにいた二人の先輩が「理工からの入会は珍しい」と歓迎してくれました。

多くの先輩たち

 短歌会は、週一回の歌会(詠んだ短歌を披露して批評し合う会)にほぼ全員が集まりますが、憧れの一人佐佐木幸綱さんがいません。聞くと、この春卒業してしまったのです。しかし、大学院へ進んだからときどき来てくれるだろうということでした。実際、まもなくしてお会いでき、家が近いこともあって、親しくしていただきました。幸綱さんの代表作の一つ

 サキサキとセロリ噛みいてあどけなき汝を愛する理由はいらず

はその頃の作品です。そして、今も歌人として活躍中の福島泰樹さんや三枝昂之さんもいました。特に、福島さんには可愛がってもらいました。

吉永小百合と同じ教室で

 そんな中、親しくしてくれた1年上の先輩が、顧問の窪田章一郎先生の授業を聞きに来ないかと、誘ってくれました。その先輩は夜間の二文(第二文学部)で、窪田先生が理工の会員がいることを聞いて授業を受けに来ればいいと言われたというのです。夜間なので理工の授業には差し支えないし、「吉永小百合も受けてるよ」という先輩の言葉に動かされて、「中世文学論」という科目を聞きに行きました。しかし、期待に反して吉永小百合はいませんでした。やっと彼女を見たのは3回目だったでしょうか。隣に座っていた先輩が私の脇を突いて「ほら、来てるよ」と言いました。後ろの方の席に座って、本当に目立たない存在でした。でも、確かに映画や写真で見た吉永小百合に違いありませんでした。

新しい友との出会いと脱会

 自宅の近くの本屋で「短歌研究」を立ち読みしている同年輩の男子がいたので、声をかけてみました。彼も短歌が好きだが浪人中で、早稲田を志望しているということで、話が弾み、とうとう私が参加している「一路」に入ることになりました。その後、この大林明彦君は早稲田大学に入学し、短歌会の主要メンバーになり、福島さんの指導を受けて歌壇でも活躍しました。この頃の私の作品は

 あぶら浮く海に消えたり ずり落ちし陽を拝まむとしてわが祖父は

というような青っぽいものでした。しかし、2年生の秋、年1度発行の「早稲田短歌」の編集に当たっていた先輩と意見が衝突し、福島さんや大林君の慰留にも応じず、勢いで短歌会をやめてしまったのです。

その後

 早稲田の短歌会は脱会しましたが、一路では作歌を続けていました。早稲田では気負って前衛短歌的なものをめざしていましたが、しだいに音の響きと言葉のイメージで抽象絵画のような短歌を作りたいと思うようになりました。

 鉄製の階段を上がる音ありてカトレアの花とパンのあたたかさ

 そして、北原白秋・寺山修司といったマルチ作家のいろいろな作品に親しむようになっていき、一路の主宰者だった山下陸奥先生の死去で、短歌から離れてしまいました。早稲田に入ったばかりの頃、私が建築学科だということを知った先輩の1人に「君はいずれ短歌をやめるだろう」と言われたことを思い出します。「第二芸術」といわれた短歌と「総合芸術」ともいわれる建築とのスケールの違いを指したのでしょう。

#部活の思い出

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