見出し画像

アルバイトが決まりませんー私たちがマラソンで同じコースを走らせろと議論しているときに、コースの整備をしている人々ー

「アルバイトが決まらないんです、うちの生徒」
この前の打ち合わせで、僕は絶句してしまった。
「だから、面接の練習をしたり、電話のかけかたを指導したり…」とその担当の先生は教えてくれた。
「自己肯定感とかはどうですか?」
私は念の為、聞いておく。
「定時制高校で、学び直しなんです。自己肯定感は低いですよね、やっぱり」
彼女はそう続ける。


アルバイトが決まらない、ということを、私はどう捉えたらよいかまだわかっていない。
多くの人が時給1000円以下で働いていることをもちろん知っている。
最低賃金を1500円に、というスローガンを私は知っている。
私は、そういう世の中になればよいなとも思っている。
安い給料でこき使いたいと多くの企業が思っていて、そして、そういったところに喜んで働くと言っている人がいて、それでも、その基準にも達していないとは、どういうことなのか。
「では当日よろしくお願いいたします。失礼いたします。」
私は、打ち合わせを終えて、電話を置き、ため息をついた。


今度の90人への高校生への講演で何を話せばよいのか、途端にわからなくなってしまった。


別のある高校に行って大失敗したことがある。
私の講演では、性の多様性についてはもちろん話すのだが、最後のまとめで、『ふつう』の幸せからズレてもいいし、『ふつう』の幸せを望んでもよいよ、と言っている。
その最後の方に登場するスライドで例に出しているのが、例えば、「良い大学に入り、良い職場に就職し、結婚して、子どもを持ち、まぁ、ついでにマイホームを購入する」みたいなそんな幸せな家庭像なのだ。
狙いは、そこからズレてもよいのだよ、と語ることである。
結婚しなくてもいいし、子どもを持たなくてもいいし、家なんて別に買わなくてもいいし、といったような話をする。話す際の軸は性にあるけれども、もちろん。
ある高校でその説明をしているとき、私はとても恥ずかしくなった。
説明しながら、その「偏差値の低い」高校では大学に進学する子がほとんどおらず、就職する子が多いという事実を思い出していたからだった。
駅から車で迎えにきてくださった先生との会話を思い返しながら、私は恥ずかしくなって慌てて早口でまくしたてた。
私はその世間一般の「幸福な家庭像」「幸福なライフプラン」へのアンチとしての、性に関する規範とは異なる生き方をすること、皆の生き方を広げる可能性を提示しようとしていたのだけれども、そして、ここにいるはずの内在化しているフォビアをもつ当事者をエンパワーしようと思っていたのだけれども、私の設定した「幸福な家庭像」はこの中にいる誰もが考えもしないことだった。
私の生活圏のダイバーシティのなさに、愕然としたのだ、自分自身の見てきた世界の狭さというか、私の中での『世界』には大学入学者しかいなかったのだ。
そういった像のスタート地点から、彼らには別のコースが用意されている。
いや、むしろ、私たちがマラソンで同じコースを走らせろと議論しているときに、彼らはコースの整備をしてくれている。
私達は互いに交わることがほとんどない。
私達はどこからか別の世界の住人となっている。
同じ土地や同じ空気を共有しているハズなのに、私達はとてもとても遠い。


そもそも、LGBTの話をしてほしいという依頼は、明らかに高偏差値の学校に多い。
「講師に迷惑をかけてはいけないから」
「うちの生徒は、なかなか静かに話を聞けないから」
学習会にきた先生方に、「ぜひ、おたくの学校でも」というようなことを言うと、そういう声がちらほら聞こえてきて、あぁ、なるほど、と思う。
そうやって彼らの機会は限られる。
逸脱した性を教えるなんてとんでもないことらしい。
彼らには静かでいてもらわないと困るのだ。
”コンドームを教えたらセックスしたがるから教えたらダメだけれど、妊娠は絶対にダメ”
そんなことを真面目に言ってしまう先生や教育委員会の人が結構いて、私は爆笑してしまう。
場が凍りついても笑い飛ばしてやろうと思う。
セックスや性的同意や同性愛やレイプや被害や加害や、そんなことは教えないのに、高校3年生で妊娠したら、妊娠した女の子が退学させられてしまう公立高校。
教えなかったのは、<私達>。
何かあったら、そのあったことを、なかったことにする。彼女を消去する。
世の中を生き抜くための性についての大切な知識は、必要なところに届かない。私は、問題なく割り算ができて、消費税の計算ができて、竹取物語を全部暗記できる人にだけ教えることが許されている。
問題なく割り算ができて、消費税の計算ができて、竹取物語を全部暗記できる人が、 割り算ができなくて、消費税の計算ができなくて、竹取物語を暗記できない人の性への教育を躊躇し制御し禁止する。
そうして、ちょっとした差が、触れる機会がないために大きな差になっていく。


来週、なんの話をしたらいいのだろう。
たった、1時間ぽっちで。
「DVの家庭がある」「彼女を中絶させた子がいます」
そんなことも言っていた。
私はどんな話をしたらいいのだろう。


学んでもどうにもならないこともある。
私はまさに今、そんな状態だ。 私だって、どうやって生きていったらよいかわからない。学んでも、学んでも、この世界はしっちゃかめっちゃかで、政治家はヘイト発言を言いまくっても辞めなくて、みんな税金が「不良品」で無駄な武器に使われても文句も言わない。痴漢があったら、痴漢される方にも問題があったのでは?あるいは、冤罪では?と言われる。
引きこもりの息子を殺した親には共感のメッセージがSNSで飛び交う。
厚労省の大臣が「社会的に、女性は仕事でハイヒール」とナチュラルにいい、「嫌なら違うところで働けばいい」というSNSの声がチラチラみえる。
年金は税金のことだっけ?みたいな現象になって、消費税は10%に上がるらしくて、教育へのお金はどんどん削られている。


そんな中で、学べる環境がなかった人々が、1時間ぽっちで何を学ぶことができるというのだろう。学ぶことを奪われ、学ぶことが苦手で、学ぶことによって成功したことのない人々が。性を学ぶこと、それは、たぶん、自分のsexを楽しむこと、自分を大事にすること、他人の性を人生を大切にすることなのだ。何もできない無力感と、それでも、たった一つの出会いや言葉で救われる可能性に賭けている。私の言葉が誰かを触発し、その場にいる誰かの呼吸や反応が、私を触発することに賭けている。学ぶことがとても無力に思われたとしても、私達は出会わなければならない。出会い、お互いが摩擦を感じること、違和感や気付きや攻撃や安堵の感覚を交換すること。


学ぶことは自分が「自由」になるための武器になる、と私は言ってみようと思っている。学ぶことによって、賢くなることによって、私達は少しだけ「自由」になれる。今の世の中のような、誰かを蔑む「自由」、権力を得て誰かをいじめる「自由」ではなくて、別の「自由」をみつけることができるのではないかと思っている。誰かに踏みつけられながらも、誰かを踏みつけず、軽々と飛んでいける「自由」。踏みつけてくる人々を闘牛士のようにひらりと交わし、こっちにおいでと言える「自由」。
ベル・フックスは、ブラック・フェミニズムの文脈で、白人女性や黒人男性が共に白人男性の権力をもつことを「解放」だと捉えてきたこと、ならびに、白人女性と黒人女性が、男性に気に入られるために競い合ってきたことを指摘した上で、以下のように述べている。


"黒人女性も白人女性もあまりに長い間、「女性解放」というときの「解放」の概念を現状に鑑みて構築しようとしてきたため、すべての女性が結束できるような戦略をまだ編み出せていない。言ってみれば、これまで女性が抱いてきたのは、奴隷の自由観でしかない。奴隷にとっては、主人の生き方だけが理想的な自由なのである"(フックス, 2010)


私達がやるべきことは、支配的な層に接近しておこぼれを貰いながら、友人や家族をセール品のように売り渡すことではない。
二流市民としておとなしく黙っていることでもない。
私達の教育がそうした主流の支配的な価値観や金や権力をもつ人々のために構築され、そういうふうに学んで/学ぶことなく放置されてきたからといって、(それはもちろん酷いことだが、だからといって、)私達の加害が免除されることはない。
私達が主人の真似をして誰かを傷つける方法を学び、「下」を作り傷付ける「自由」でもって溜飲を下げるのなら、あまりにプライドがない。

私達が、「私たちがマラソンで同じコースを走らせろと議論しているときに、コースの整備をしている人々」と共に、マラソンを捨てて別のスポーツを作り楽しむことができるかに、これからの未来は賭かっている。


[参考文献]
ベル・フックス(大類久恵監訳)『アメリカ黒人女性とフェミニズム「私は女ではないの?」』明石書店(2010年10月), p.244

にじいろらいと、という小さなグループを作り、小学校や中学校といった教育機関でLGBTを含むすべての人へ向けた性の多様性の講演をしています。公教育への予算の少なさから、外部講師への講師謝礼も非常に低いものとなっています。持続可能な活動のために、ご支援いただけると幸いです。