えんどう豆の中の虫

私が『取り乱す』えんどう豆の中の虫

さやえんどうを貰った。
ご近所さんの庭で栽培されているそれは、とても艷やかな色をしていた。
僕は、友達の家で料理をする機会が直後にあり、そのさやえんどうを、きっちり200g持参した。
二合の豆ごはんを作るのに、僕は毎日磨かれている機能的なキッチンの前にたって、自家製のさやえんどうから、豆を取り出そうと剥いた。
私はイメージしていた。
そこには、グリーンピースのような豆が整然と並んでいる姿を。
しかしそこにあったのは、白いもやもやとしたものと黒っぽい何かだった。
僕は恐怖で思わず、たくさんえんどう豆の入ったザルの中に放り投げてしまった。
しっかり何であったかは見ていないけれど、えんどう豆でないのは確かだった。
そこには僕が嫌いな何かがあり、思わず僕は、「虫、虫がいたー」と友達を呼んだ。
テレビをみていた僕の友達は、やれやれといった面持ちで、キッチンに入ってきた。
「どれ?」
彼はそう問いかけ、僕は、
「わからない」
とだけ述べる。
「手伝うよ」
とだけ、彼はいい、僕は気のせいだったのかな、と別の作業にかかる。


「あぁ、これか」と
5分後ぐらいに、彼は、僕のみつけた虫をみつけ、ぽいと捨ててしまった。
それだけのことだった。


僕はまだショックだった。えんどう豆をみるのも怖かった。
食べるということは、私も食べ、そしてときに虫も食べ、それでも、虫が食べるものは私たちは食べられないから捨てるという、かくも簡単な関係性なのだ。
それでも、僕は、たぶん、これまで、野菜というものは、何か、チョコレートと同質のものというように思っていた節があると思う。
チョコレートでなくても、マシュマロでも、焼き肉のたれでも、なんでもよいのだけれども、つまり、管理され、問題がないようなもの。
極めて問題の少ない工業製品的な何か。


虫がいたら食べない、虫も同じものを食べている。私は虫を取り除いて食べる。
とてもシンプルで、そういう関係性を私達、人間というものは、何世代にも渡って、繰り返してきたのですよね?と僕は思った。
野菜を作ること、野菜に虫がつくこと、その当たり前を忘れていること、その当たり前が怖いこと。
私はこの経験を語る言葉をまだ持っていないのだけれども、私たち人間はずいぶんとすごいところまできてしまったものだと思った。


虫が嫌いな私は、直感的に私と自然との関係性を問い直していた。
どうしてもダメなのだ。
どうしても、私の過去29年間の土から切り離された生活が影響していると思う。
公平を期して言えば、私の両親は自然が好きだったし、子どもの頃にはよく山登りやハイキング、海水浴などに連れて行ってくれた。
それでも、私の自然への恐怖は、染み付いている。
よくわからない動きをする虫や、よくわからない物への恐怖がある。
私はその恐怖を、見ることなく育ってきた生き物なのだ。


このテキストの着地点はみつかっていない。


エコロジカルなもの、環境、自然、動物との関係性を再考することに、最近の私は、フェミニズムの格差社会のジェンダーのセクシュアリティの、今後の可能性を見出している。
たくさんの賢い人々がその方向で考えていることを知っている。
ダナ・ハラウェイの最近のインタビューの日本語訳をよんで、鶏を飼い、堆肥を作っている彼女のその理論と実践の結合を知り、私は感嘆した。
それと同時に、私はそこまではできない、という諦めに近いものが、私の身体が叫んでいるのがわかった。
それは今、日本の大学院生という極めて不安定な地位で、金銭的/時間的余裕がないからという類の理由ではない。
たとえ、両方共あったとしても、そして、その堆肥を作ることの実践が、私の研究や思想に直結していようとも、できないのだ。
だって、寄生虫の問題は?虫の問題は?とても手に負えない、と。
仕方ないじゃない?と。
私は土と共に育っていない。
私の中の嫌悪感と、吐き気と。
それでも、そう、私達はすでに食べ物を共有しているのだ、という紛れもない事実を突きつけられて、私は戸惑ったのだ。


この感覚が、例えば、ゲイであることをカミングアウトされて戸惑う異性愛者の感覚と、ピッタリ重なるとは思わない。
それでも、私達が、ゲイであること、トランスジェンダーであること、人とsexをしたいと思わない人であることなど既存の多くの人々の日常の中にはなかった指向やアイデンティティを語るとき、そして、その多様性は昔からあったものなのだ、私達は、多様になってきているのではないのだ、多様性は確かに昔からあって、それを取り戻したいだけなのだ、というときの感覚は、やはりこの虫と私がえんどう豆を共有しているという紛れもない事実(かつ長らく巧妙に隠蔽されていた事実)と同様なのである。


私よりはるかに弱者である虫を、私は怖がる。
農薬を使ってしまえとさえ思うとき、私は徹底的に弱者である虫を、私の視界から消し去ってしまいたいという願望にかられている。
私の恐怖は、虫が私を刺すかもしれないという恐怖なのかもしれない。
あるいは、他のえんどう豆の房への悪影響があるかもしれないという恐怖なのかもしれない。
いずれにせよ、私の中での恐怖はなぜなのか。
私よりはるかに弱者であるはずのものは、私をここまで考えさせる。


そんなことを考えていたときに、古いウーマン・リブの本「いのちの女たちへ」を読んで目が醒めるような想いを抱いた。
『取り乱し』という概念はまさしくそういうときのためにあるのではないか、と。


"リブを運動化して間もない頃、それまであぐらをかいていたくせに、好きな男が入ってくる気配を察して、それを正座に変えてしまったことがあった。(…)楽でかいていたあぐらを正座に変えてしまった裏には、男から、女らしいと想われたいあたしがまぎれもなくいたのだ。"(田中, 1972)


ウーマン・リブの運動をしているならば、当然、あぐらであるべきはずなのに、好きな男に前で、女らしくありたいと身体が思ってしまった著者はこう書いている。
ダナ・ハラウェイを読み、アニマルウェルフェアについても調べ、理論的には野菜を育て、堆肥をつくり、生きていくことがある種の「正しさ」であることを感じながら、それでも、そんな生き方がどうしてもできない、私。
それを認識した上ではじめるしかないじゃないか、と。
矛盾を抱えながら、スーパーで規格化された野菜の方がやっぱりいいなと想いながら、さやえんどうは姉夫婦にあげてしまおうと思い、別のものを購入し、それでも自然や動物との共生を指向すること。
たぶん、切り離されたシステムの中で育ってしまった、出来損ないの脱自然化された私を認め、その私から始めるしかないのだ。
私そのものの成り立ちからはじめるしかないのだ。
私そのものの成り立ちが、もはや、自然と切り離されている。虫や暗闇や海や、私達の手に負えないものは、非日常に押しやられている。
生活のための虫はいない。生活のための海もない。
私には、星空を見るための鳥取砂丘の闇の思い出はある。
魚釣りをした五島列島の海の記憶はある。
博物館でみた虫は知っている。
でもそれは、私の生活のための、生きるために隣り合わせの自然ではない。
その自然は、知識としての自然。私の価値を、私の工業的な価値を高めるための私の知識となった自然でしかないのだ。


たぶん、大切なのは、『取り乱し』がないかのように振る舞うことではなくて、『取り乱し」ている私を好きになること。
そして、『取り乱し』てしまわない誰かに教えを請うこと。
それでも私は泣きそうになってしまう。
私に染み込んだ身体の感情から、それも理論的には間違っていそうなその身体の感情から、すべてをはじめなくてはいけないだなんて。


貰ったえんどう豆は、剥くことができずに、まだたくさん冷蔵庫の中にある。


[イラスト]
飯塚モスオ, twitterアカウント: @moscowmule_


[参考文献]
田中美津. (1972). いのちの女たちへ: とり乱しウーマン・リブ論. 田畑書店.

Franklin, S. (2017). Staying with the manifesto: an interview with Donna Haraway. Theory, Culture & Society, 34(4), 49-63.( フランクリン・S 逆卷しとね(訳)(2019).  子どもではなく類縁関係をつくろう──サイボーグ、伴侶種、堆肥体、クトゥルー新世|ダナ・ハラウェイが次なる千年紀に向けて語る  HAGAZINE. URL: https://hagamag.com/uncategory/4293 (アクセス:2019年5月28日))


にじいろらいと、という小さなグループを作り、小学校や中学校といった教育機関でLGBTを含むすべての人へ向けた性の多様性の講演をしています。公教育への予算の少なさから、外部講師への講師謝礼も非常に低いものとなっています。持続可能な活動のために、ご支援いただけると幸いです。