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残像

 薄暗い店内、うっすらと流れてくるマイ・ファニー・ヴァレンタイン。煙草の煙とアルコールのにおい、そして人の吐息が漂うカウンター。

 ああ、ほっとする。三橋は腕時計を外すと、スマートフォンやガラケーと一緒にそっとカウンターの上に置いた。スマートフォンの通知画面には、絶え間なくLINEの通知が流れている。

 この継ぎ目のないカウンターはマスターが一本の古い木を削って造ったものらしい。三橋は木の温もりと時間の重みを感じさせてくれるこのカウンターがたまらなく好きだった。この木の一本一本の年輪がイライラした心を和ませてくれる。だから面談をする時はこのカウンターを利用する時が多い。

 『こういう奴は続かないんだよな』

 三橋は、突然思い出したかのようにジャケットのポケットから煙草を取り出すと、その空いた隙間に無造作にスマートフォンを放り込んだ。

 今日は朝から入社希望として来た二人に、知り合いを尾行させている。一人は大学生。一人は転職希望のサラリーマン。

 「探偵になりたいんです」って、目がキラキラしていた時点でもう「ダメだ」と三橋は感じていた。

 「こいつら、映画とかドラマの見過ぎなんだよ」

 むしろ、切羽詰まっていてすぐにでもお金が欲しい主婦とか、サラ金に追われてビクビクしているダンナの方がよっぽど使える。そういう奴の方が、言い訳とかしないで確実に結果を出す。そのお金に対する執着心は、時に、期待以上の成果を生むこともある。

 どれだけ目立たず、空気のようにその場に溶け込むか。そんな中で「俺、今、尾行してるんだ」なんて、主役気取りで生き生きと動かれたら全てが台無しだ。


 ブブブブーッ、ブブブブーッ。

 『すみません、一時間ほど遅れます』

 ガラケーに、クライアントからのそんなメールが届いた。待つのは慣れている。一時間くらいなんて事はない。ドタキャンされるよりよっぽどマシだ。

 『承知しました。お待ちしております』

 三橋は灰皿から落ちそうになっている火のついていない煙草を横目に、丁寧に、しかし事務的にメールを打った。

 その返信は恐ろしいほど早かった。おまけに「私、なかなかイケているでしょう?」そう言いたげに露出度の高い写真を添付してきた。

 (こんな綺麗な私のためなら頑張って仕事をしたくなるでしょう?)そんな気持ちでいるのだろうか。男はみんな、女であることを匂わせれば快く動くと思っているのだろうか。

 『女を餌にせずに、きっちり金を払えよ?オバハン』

 そう打ち込んだ文字を眺めながら、三橋はこらえきれずにうつむきながら肩を震わせて笑った。

 後ろをOL風のメガネの女が怪訝な顔をして足早に通り過ぎる。パンプスの音の後に残された甘い香水とアルコールの混ざったにおい。そんなちょっとしたハプニングが昔の思い出とリンクして、それがまた心地よい。

 (きっとこの人も、この案件が終わればすぐに俺の存在を消すだろうな)

 三橋はライターを手にしたまま親指で画面の文字をゆっくりなぞると、ボタンを連打して躊躇なく文字全部を消した。

 依頼人は調査が終わると人が変わる。二年近く毎日のようにやり取りをしていても、その後は嘘のようにぱったりだ。道で偶然出会っても『その頃のことは思い出したくない』と言うように気付かないフリをされることも多い。

 大事な人生の選択時に携わっているのに、その功績をたたえるどころか、存在すら一瞬にして消されてしまう。

 それなのに、不幸が訪れると「お久しぶりです」などと、数々の無礼がなかったことのように親しげに連絡をよこしてくる。

 「いざという時は三橋さんがいるから心強いです」

  そんな時、皆、必ずと言っていいほどそう言うが、俺はお前たちの保険じゃない。

 どうして自分で解決しようとしないのだろうか。どうしてそんな自分勝手な自分を恥ずかしいと思わないのだろうか。そんな怒りがフツフツとこみ上げてくる。

 でも、俺たちはそれで飯を食っているのだから仕方がないか。それに…

 そもそも、俺は「三橋」じゃないからな。

 三橋の手の中でグラスの氷がカランと音を立てて崩れる。

 時々対象者だった人を見かける時もある。相手はもちろんこっちのことを知るわけもないのだが、こちらからしてみれば妙な親近感がある。仕事として動いている時は依頼人に絶対服従だが、こうして契約から解かれてしまえば普通の人になる。

 そうなった時に思うこと。

 今は何をやっているのだろうか。元気にしているのだろうか。今、幸せなのだろうか。

  俺がやっていることは人のあら探し。人としては最低なことをしているのだろうな。

 そんなため息と共に感じる胸の痛みと重たい身体が、自分が人間であったことを気付かせてくれる。

 
 三橋はチェット・ベイカーの歌声に合わせ、ほんの少しだけ顔を左右に揺らした。酒を呑んでいるわけではないのに彼の歌声はなぜかこんなにも心を酔わす。

 カウンターの隅の方にグレーのスーツを着た男が座っているのには最初から気付いていた。ただ、男はひたすら反対方向の入り口の方を気にしていて顔が見えず、「マスター。もう一杯同じものを」と、振り向いたときに始めてその男が『知らない男』ではないことに気がついた。

 一年ほど前に一ヶ月尾行した男。誰かと待ち合わせだろうか。三橋は視界ぎりぎりでそんな男の姿を捉えながらウーロン茶を口に運んだ。

 口の端を親指でさする癖、しかめた顔をして煙草を吸う姿。相変わらず絵になるいい男ぶりだ。しかし、前のようなギラギラした鋭さはなくなっていた。やはり、あの一件が彼に大きなダメージを与えたのだろうか。

  三橋の脳裏に地味だがとても気高く清楚な女の姿が浮かぶ。その間を割るようにカップルの場違いな笑い声がキンキンと響き渡った。三橋は記憶を辿るように一瞬目を細めると、眉間に皺を寄せながら煙草に火をつけた。

 三橋は一年前、男の妻から愛人の存在や居場所、その子供の学校などの調査を受けていた。

 報告した時のあの妻の態度を思えば、愛人はただではすまなかったであろう。しかし、男の左手の薬指には一年前と変わらないプラチナの指輪が光っている。三橋は胸の奥に鈍い痛みを感じた。

 確か、小林だったよな。

 約束の時間まであと三十分。三橋は氷がすっかり解けてしまったウーロン茶を横に頬杖をつきながら

 「あの人は今、幸せなのだろうか」

 そんな思いを巡らせていた。

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