男の約束
健は洗濯カゴにブルーのユニフォームを放り投げると、キッチンテーブルの上に置いてある大好物のスイカには目もくれず、テレビの前に寝転がった。
なんだかうまく行かないことばかり。つまんねぇ。
テレビのチャンネルをまわすが、なにも頭に入ってこない。でも、無音でいることには耐えられず、とりあえずあたり障りのないニュース番組を流す。
「おいーっす!ちょっとトイレ貸してくれ」
聞きなれた声に呼ばれて玄関の戸を開けると、油と泥で汚れた手を広げて見せながら男が立っていた。
「事務所まであと少しでしょ?大人なんだから我慢しなよ」
「ばかやろう。命懸けで悪いやつと戦ってきたんだぞ。トイレくらい快く貸せよ」
大げさだな。その辺のコンビニに行けばいいじゃんか。健は濡れたタオルを男に向かって投げつけた。
いつもそうだ。なにかと理由をつけて、この男は我が家にやってくる。でも、ちっとも嫌な感じがしない。
健はいつものようにトイレの前に背を向けて座ると「俺さぁ、レギュラーから外されちゃったよ」と、力なく呟いた。
「なんだ。年下に負けたのか?情けねぇ」
「あいつ、違うクラブにも入ってるんだぜ?上手いに決まってるじゃん」
『あいつ』というのは、一つ下の伸治。チャラチャラした髪型で、テクニックだけで点数を稼いでいるタイプ。と、健は思っている。
「お?はじまった。言い訳」
「言い訳じゃないよ。仕方がないじゃん、俺は俺で頑張った」
急にトイレのドアが開いた。
「おまえが頑張ったか頑張ってないかは俺が決める。レギュラー外されたくらいで拗ねるなら、サッカーなんか辞めちまえ」
男は勝手に台所から灰皿を持ってくると、座椅子を枕に寝転がった。
「あれ、父さん、来てたの?」
今日はなんの用?奥の部屋から香織が分厚い本を持って出てきた。
「冷てぇな。いいじゃん、用がなくても寄ったって」
「部屋が狭くなるじゃん。うちは大人がもう一人入るスペースなんてないのよ」
「なんだよ。昔は『おとーちゃんと結婚する』って言ってたくせに」
いつの話しよ。香織は冷蔵庫から麦茶を出すと、コップを三つ、スイカと一緒に持ってきた。
男は一緒に住んではいない。
健はあまり覚えていないのだが、香織に言わせると男は昔、母と結婚していたらしい。
「じゃ、今からでもいいから、再婚しちゃえばいいじゃん」
健は男に何回かそう言ったことがあるが「大人の事情」と、軽くあしらわれた。
「いつまでも昔を持ち出してグズグズ言っているような女々しい男なんて、こっちからお断りよ」と、母がお茶を出しながら鼻で笑い、
「うっさいな。消せないからこそ、どうしようもないんだよ」
そう言いながら畳に寝っ転がっている男。
いつだか男が来た時、母が突然ホウキを持ち出して暴れたが、香織は「いつものことだから放っておきぃ」と、笑いながら健を連れ出してくれた。男が帰ると、「ちょっと演技に熱が入りすぎたなぁ」と、母は舌を出して笑っていた。
「次はなにをしたらインパクトがある?」
どう見てもテレビドラマで見る普通(?)の家庭の夫婦喧嘩というものにというものに見えるのだが、大人の事情というものは健はよくわからない。
わかっているのは、男は短気で、アイスティーに塩を入れるような変なところがあるが、物凄くサッカーが上手くて、テレビにも出ているような有名人で。それでいて、とてもうちの家族を心配してくれて、健との約束は必ず守ってくれること。
そして、我が家は決して裕福ではないが、皆楽しそうであること。
「父親がいない家にしてごめん」
男はそのことをとても気にしているが、健にとっては、虫捕りや釣り、サッカー観戦の約束の方が大事だったのでなんの問題もない。
父親って、なに?そんなに大事なものなの?
「あー、仕事行きたくねー。もうさぁ、皆並べて片っ端からぶん殴ってやりたいよ」
皆バカばっかりでさ。イライラするんだよね。男はポケットから取り出した煙草とライターを無造作に畳にぶちまけた。
「おまえはサッカー辞めたって、食うことには困らんだろう?俺なんか、どんなに嫌でも簡単にはサッカー辞められないんだぜ?」
そこは一緒にするところじゃないだろう。と、健は思いながらも、なんだかさっきまで重かった気持ちがスーっと楽になっていく気がした。
「でもさぁ。そんな金にもならんようなことに意地になったり、一生懸命になれる男って、格好良くねぇ?」
まー、俺は今は金の為に生きてるけどな。と、男は畳に寝転んだまま、タバコの箱の端をトントンと叩きはじめる。
「とーちゃん。夏になったら、クワガタ捕りに行こうよ」
「おお、いいよ。でも、一番でかいのは俺がもらうからな」
「大人気ないなぁ」
ばかやろう。.男はいつでも真剣勝負だぜ。火のついていない煙草を咥えたまま、男はニタリと笑う。
「じゃ、レギュラーになったら譲ってよね。一番でかいヤツ」
健はスイカに手を伸ばしながら、ニヤリと笑い返した。
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