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聖ジャンヌ・ダルク(後編)

Sainte Jeanne d'Arc

フランス王シャルル七世は、1422年に王位に就いたが、フランス北部が英軍に占領されていたために、王位継承儀式として定められたランス(Reims)での戴冠式をできずにいた。オルレアンの勝利の後、ジャンヌ・ダルクオルレアンの北の英国軍の軍事拠点でもあったパティ(Patay)の戦いでも圧勝し、ランスへの道が開けた。シャルル七世ジャンヌ・ダルクが北東に進軍すると、町村が次々とフランス王家への忠誠を誓った。7月16日、ランスも城門を開き、翌日17日朝、シャルル七世の戴冠式を挙行した。
ランスは、フランスの前身でもあるフランク王国の初代国王クローヴィスランスの大聖堂で洗礼を受けていたことから、816年に神聖ローマ帝国皇帝シャルルマーニュ(Charlemagne)の息子、ルイ敬虔王(Louis le Piuex)が初めてランスの大聖堂で戴冠して以来、歴代のフランス王たちの戴冠式の場となっていた。

大聖堂前のジャンヌ・ダルク像19世紀末のフランス人彫刻家ポール・デュボワ(Paul Dubois)の作品。右手に剣を持った戦闘場面のジャンヌ・ダルク像

ランスの大聖堂の正式名称は「ランスのノートルダム大聖堂(Cathédrale Notre-Dame de Reims)」。現在の教会は13世紀から14世紀にかけて築かれた。ゴシック様式の重要な建造物で、2300体の彫像で外装が飾られている。

正面入り口上部の聖母マリアの戴冠
正面入り口中央門には、受胎告知する天使ガブリエルと聖母マリア像
入り口中央門壁面の微笑む天使
大聖堂内観。
身廊の長さは138メートルで、フランス最長(パリのノートルダム大聖堂は127メートル)

1909年のジャンヌ・ダルク列福を記念して、ランスの商人が寄贈したジャンヌ・ダルク像が、聖ジャンヌ・ダルク礼拝堂に顕示されている。クリーム色のチュニックのコートには、ラピスラズリでフランス王家の百合の花がで描かれ、鉄兜を被り目を半ばつぶり、瞑想しているようなジャンヌの顔は象牙で造られている。

聖ジャンヌ・ダルクの礼拝堂

18世紀から始まったステンドグラスの毀損、さらに第一次世界大戦のドイツ軍による砲弾により、多くの13世紀造ステンドグラスが破損したが、今日もまだ多くの13世紀のステンドグラスが堂内の窓を飾っている。

大聖堂の主要祭壇後方の後陣の礼拝堂の窓を1974年に画家のマルク・シャガールが「エッサイの木(arbre de Jessé イエスの系譜)」をテーマにステンドグラスを作った。

シャガールのステンドグラス

6月最初の週末、ランスで「ジャンヌ祭(Fêtes johanniques)」が開催される。ジャンヌ・ダルクとシャルル七世、当時の王侯貴族の衣装を着たパレードがある。

ジャンヌ・ダルクとフランス王シャルル七世のパレード

フランス王軍に扮した兵士の行進。パレードの後、中世の村で兵士の戦いなどを再現。

4(25‐26)中世の宮廷貴族の衣装を纏った王侯貴族、子女たち

4(27)中世の楽器を奏でる音楽に合わせて舞踊も披露される

4(28-29)
パレードの一行は、聖レミ聖堂前広場からノートルダム大聖堂へ

4(30)
大聖堂裏手敷地で、中世時代の衣装を纏った手工芸品の出店、食べ物の屋台なども

4(31)鷹狩り
中世の村の広場では、中世、スポーツの一つであった鷹を使った狩猟、「鷹狩り」も行われる

ジャンヌ・ダルクは、ランスでのシャルル七世の戴冠式の後、英軍とブルゴーニュ派に占領されていたパリを奪還するために、パリ包囲作戦に参加するが失敗した。その後、英仏停戦協定が結ばれたため、ジャンヌも数か月間休憩状態にあった。英仏停戦条約が失効し、翌年5月、英軍と同盟を結んでいたブルゴーニュ派は、パリ北部のコンピーニュ(Compiègne)を包囲したため、ジャンヌ・ダルクも援軍として参戦した。フランス王軍は勝利したが、部隊退却中に殿(しんがり)を務めたジャンヌ・ダルクは逃げ遅れ、コンピーニュの城門の手前で敵軍に捕縛され、ブルゴーニュ領のアラス(Arras)に移送された。ジャンヌは英軍に売られ、英国の占領統治府のあるルーアン(Rouen)に身柄を移され、異端審問裁判(Inquisition)にかけられた。ジャンヌは身を護るために男装を繰り返していたことで異端と宣告され、死刑判決を受けた。

ルーアン大聖堂から市場まで街の繁華街グロ・オルロージュ通り(Rue Gros Horloge)が続く
グロ・オルロージュ通り半ばに、ルーアンのシンボルともなっているジャンヌの時代の前世紀に築かれた大時計台がある
ルーアンの旧市街にはノルマンディ地方特有の木組み造りの家屋が数多く残っている

ルーアンの大聖堂は、大聖堂の司教がノルマンディ地方の首座司教であるために、正式には「被昇天のノートルダム(聖母マリア)司教首座大聖堂(cathédrale primatiale Notre-Dame-de-l'Assomption de Rouen)」と呼ばれ、左側の高さ82メートルの鐘楼から"ジャンヌ・ダルク"と呼ばれる9.5トンの巨大な鐘音が響き渡る。
印象派の画家モネが、30枚もファサード(façade 正面部)を描いたことから世界的にも知られる大聖堂でもある。

大聖堂の身廊は135メートル、身廊の天井の高さ28メートル、フランスで最大級の大聖堂の一つ。12世紀から16世紀まで長い年月をかけて建設された。第二次世界大戦末期1944年に空爆、攻撃を受け火災も発生した。戦後、改築された。

ジャンヌ・ダルクの処刑の地に築かれた聖ジャンヌ・ダルク教会(Eglise de Sainte Jeanne D'arc)。中世ノルマンディ地方に北欧から到来したヴァイキングの船(Drakker)をイメージして、建築家ルイ・アレッチェ(Louis Arretche)が設計。1979年に落成。

古い市場(Vieux-Marché)と聖ジャンヌ・ダルク教会の間に聖女ジャンヌ・ダルク焚刑の地(Le Bûcher de Jeanne d'Arc)がある。

聖ジャンヌ・ダルク教会内観。ノルマンディ地方の伝統的な船を反転させたような天井、壁の窓には16世紀の旧聖ヴァンサン教会(église Saint-Vincent)のステンドグラスと16世紀のボーヴェー(Beauvais)のガラス職人アングラン・ルプランス(Angrand Leprince)のステンドグラスを嵌め込んでいる。

ジャンヌ・ダルク焚刑の地の永遠の炎
聖ジャンヌ・ダルク教会外壁にある、20世紀の彫刻家で政治家でもあったマクシム・レアル・デル・サルト(Maxime Real del Sarte 1928年)作の聖ジャンヌ・ダルク像

ジャンヌ・ダルク処刑の地ルーアンでは、聖女帰天の記念日(5月30日)に、市民の創意によるジャンヌ・ダルク祭が開催される。毎年テーマが変わり、撮影した年では服飾専門学校の生徒、関係者による祭事で、全員自らデザインしたジーンズのファッションでウーマン・リブの底力を見せつけていた。
ジャンヌ・ダルクは女性党首ルペン率いるフランスの極右政党の守護聖人でもある。ルーアンに近い英国では、フェミニストのシンボルともなっている。


聖女ジャンヌ・ダルク・ギャラリー

フランス革命時にジャンヌ・ダルクはフランス王政維持に協力した王党派として崇敬が禁止され、ジャンヌ・ダルク像は溶解され大砲になった。革命後に現れたナポレオン一世は、愛国心を鼓舞し昂揚させるためにジャンヌ・ダルクを利用した。
19世紀半ば、オルレアンのデュパンルー(Dupanloup)司教が乙女ジャンヌ・ダルク賞賛の演説をして以来、ジャンヌ・ダルク人気が再燃した。オルレアン、パリ、ランス、生まれ故郷、ドンレミ・ラ・ピュセルの広場、教会堂内にジャンヌ・ダルク像が立てられた。
デュパンルー大司教は教皇庁にジャンヌ・ダルクの列聖を申請し、1909年に遂に列福、1920年列聖され、聖ジャンヌ・ダルクとなった。列福、列聖後は、以前にも増してジャンヌ・ダルク人気が加熱し、教会堂内に次々と聖ジャンヌ・ダルク像が立てられ、第二次世界大戦終結までの約100年間はまさに聖ジャンヌ・ダルクの世紀だった。

ドンレミ・ラ・ピュセルの生家の近くにある御旗を抱いたジャンヌ・ダルク像
ドンレミ・ラ・ピュセル郊外ボワ・シェヌー教会のジャンヌ・ダルク像
第一次、第二次世界大戦でフランスのために戦い、亡くなった人のための戦没者記念碑。
聖ジャンヌ・ダルクの生家の近くに立てられた
ドンレミ・ラ・ピュセルの生家入口上の壁龕、甲冑姿の聖ジャンヌ・ダルク像
18世紀の築かれた南仏プロヴァンス地方ゴルデ(Goreds)の聖フェルミン教会(Eglise St Fermin)の聖ジャンヌ・ダルク像
ル・ピュイ・アン・ヴレー(Le Puy en Velay)の受胎告知の聖母マリア大聖堂に顕示されているアンドレ・ベスケ(André Besqueut 1912年)作の聖ジャンヌ・ダルク像。同じ聖堂に、同彫刻家作の聖ルイ王像もある
フランス南部リモージュ(Limoges)の聖マルシアル大聖堂内の聖ジャンヌ・ダルク像
プロヴァンス地方ムスティエ・サント・マリ(Moustiers St Marie)の被昇天の聖母マリア教会内の聖ジャンヌ・ダルク像
ブルゴーニュ地方ヌヴェール(Nevers)の聖シールと、聖ジュリエット大聖堂(Cathédrale Saint-Cyr et Sainte-Julitte de Nevers)の聖ジャンヌ・ダルク像

ジャンヌ・ダルク賛美が始まった頃、ジャンヌ・ダルクが英軍の包囲から解放したオルレアンの中心地マルトワ(Martoi)広場に、1855年に立てられた。この広場で半世紀前の革命時代に死刑を宣告された人たちがギロチン台にかけられ、オルレアン市民にとって歴史的な広場だった。騎乗のジャンヌ・ダルクは、オルレアン包囲戦の勝利を神に感謝し剣を下に向けている。像は英軍の大砲を溶かして鋳造された。デニス・フォヤティエ(Denis Foyatier)作。

1870年、フランスがプロイセンとの戦争(普仏戦争)に敗れた後、救国の乙女ジャンヌ・ダルクの像がパリの中心地ピラミッド広場に立てられた。普仏戦争の敗戦でフランスは、ジャンヌ・ダルクの生地ロレーヌ地方をドイツに割譲した。ピラミッド広場はパリ包囲戦でジャンヌ・ダルクが負傷した戦場(163 Rue Saint-Honoré)に近く、再び救国の乙女の再来をフランス国民は熱望したのだろう。
エマヌエル・フレミ(Emmanuel Frémiet 1874年)作。
同像のコピーが合衆国のニュー・オリンズ、フィラデルフィア、オーストラリアのメルボルンにも立てられている。

パリの聖オーギュスタン教会前の聖ジャンヌ・ダルク像。19世紀末のランス・アカデミーのコンペに優勝したポール・デュボワ(Paul Dubois 1895年)作。
翌年、同じ銅像がランスの大聖堂前の広場に立てられた。ジャンヌ・ダルクは右手に剣をかざし、勇ましい戦士として表現されている。

パリのノートルダム大聖堂内の聖ジャンヌ・ダルク。1920年の列聖を祝い、翌年5月7日に落成。兜を被り、甲冑を身に纏い、百合の花が描かれた衣装を着た聖ジャンヌ・ダルクが御旗を持ち、胸の前で両手を合わせ、祈っている。C.J.C.デスヴェルニュ(Charles Jean Cléophas Desvergnes)作。

ロレーヌ地方の南サン・二コラ・デ・ポー(Saint Nicolas de Port)に、シャルル七世に会う前の少女時代のジャンヌ・ダルクが巡礼に訪れたことを記念する碑板。1929年に掲げられた。


聖人録

聖ジャンヌ・ダルク

Sainte Jeanne d'Arc

ランスの大聖堂のシャルル七世の戴冠式で主要祭壇の横に立ち、勝利の御旗を立て戴冠を祝う聖ジャンヌ・ダルク。
19世紀のフランスの画家ドミニク・アングル(Dominique Ingres)作

ジャンヌ・ダルクは、15世紀初頭、英国とフランスがフランス王位の継承をめぐって戦った百年戦争の後半に、フランス東部ロレーヌ地方のドンレミ村に生まれる。著名な人物だが、生年月日など幼少期の詳細は分かっていない。後の資料から生年月日は1412年1月6日と推定されている。敵の占領地を通過するために小姓に扮し、男性ばかりの軍隊の中で身を護り、さらに捕縛、収監された後も監視人からの性被害を防ぐために髪を切り男装していたことが災いしてジャンヌは男装の魔女として死刑判決を受け火あぶりの刑となった。
ジャンヌの遺体は、三度灰になるまで燃やされ、聖遺物として人々の手に渡らないようにセーヌ河に棄てられた。にもかかわらず、1867年にジャンヌ・ダルクの聖遺物なるものがパリの薬局で発見された。フランス愛国心の昂揚の時期で、狂信的なジャンヌ信仰がフランスで湧きあがった時代だったのだろう。ジャンヌ・ダルクは、フランスのもう一人の英雄ナポレオンの時代から政治的なシンボルとしても利用され始めた。ジャンヌ・ダルクほど数多くの文学作品、映画、絵画、音楽、彫刻、マンガのモデルになった歴史上の人物はいないだろう。
フランス国家、女性軍人、捕虜、ガールズ・スカウトの守護聖人。
ジャンヌ(Jeanne)は、ヨハネのフランス語の女性形。英名ジョアンナ(Joan)。
アルク(Arc)はアーチ、橋などを意味し、ジャンヌの実家の近くに橋があったことからダルク(d'Arc)が家名となったといわれる。

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