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聖ジャンヌ・ダルク(前編)

Sainte Jeanne d'Arc

聖人たちの列聖までの時間は千差万別。13世紀頃までは要請から列聖される期間も短く、パドヴァの聖アントニオ(Sant’Antonio di Padova)のように帰天1年後に列聖された聖人もいる。
16世紀以降、ヴァチカンの教皇庁の列聖審査が厳格になり、列聖までに数十年、数百年かかる場合もあった。列聖の決定には、時代、政治、地政などが複雑に絡み合う。

15世紀前半のフランス救国の聖女ジャンヌ・ダルク(Jeane D'arc)は有為転変、1431年に異端審問にかけられ、男装の魔女の判決を受け、焚刑に処された。その25年後、ローマ教皇カリストゥス三世(Calixtus III)の命で復権裁判が挙行され、ジャンヌ・ダルクの無実が証明され、殉教者(Martyre)となった。さらに約500年後の1909年に列福調査が行われ福者(Beatus)に列され、1920年には聖人(Saint)に列聖された。以来ジャンヌ・ダルクは、フランス国家の守護聖人となり、英軍からオルレアン(Orleans)が解放された5月8日に近い第二日曜日は国家の祝日、ジャンヌ・ダルクと愛国心の祝祭(Fête nationale de Jeanne d'Arc et du patriotisme)に制定された。

ジャンヌ・ダルクは、1412年フランス東部の農村地帯の寒村ドンレミ(Domrémy)の農家の娘として生まれた。13歳の頃、ジャンヌ・ダルクは、野外で神の声を聞いたという。当時、フランスは英国との百年戦争のさなか、フランス北西部は英国軍に占領されていた。「フランス北西部を解放し、王太子シャルルをランスの大聖堂に連れていき、王位に就かせよ」という神の声を聞いたという。美しい三人の聖人たち、聖ミッシェル(St Michel)アンティオキアの聖マルグリタ(St Marguerite d'Antioche)アレキサンドリアの聖カテリーナ(St Katharina von Alexandrien)の姿も幻視したという。

ドンレミ村、1578年からラ・ピュセル(la-Pucelle 乙女)を付け足し、村の正式名称を「ドンレミ・ラ・ピュセル(Domrémy-la-Pucelle)」としている
ジャンヌ・ダルクの生家。ジャンヌの家は20ヘクタールの農地を所有した裕福な農家だった
生家のジャンヌ・ダルク像。19世紀半ばのフランス王ルイ・フリップ(Louis-Philippe)の王女で彫刻家マリー・ドルレアン(Marie d’Orléans)作。ジャンヌを初めて男装の兵士として表現
生家の近くの13世紀に建立された聖レミ教会
羊飼いだったジャンヌが神の声を聴いたといわれる村の外れの丘の上に、19世紀後半に建てられたボワ・シェヌ教会(basilique du Bois-Chenu)
ジャンヌが神の声を聴いた時に現れたという聖ミッシェル、アンティオキアの聖マルグリタ、アレキサンドリアの聖カテリーナ
ジャンヌの父で農家の主であったジャック・ダルク(Jacques Darc)の像。
父ジャックは村の租税徴収係と自警団団長も務め、村の有志でもあった

1429年、ジャンヌは自分の住むバル地方の顧問官に、王太子シャルルへの謁見の執り成しを依頼した。当初、躊躇っていた顧問官もジャンヌオルレアン近くのニシンでの戦いでフランス軍の敗北を予想し、現実となったことから王への謁見を取り次いだ。その頃、パリ(Paris)ランス(Reims)も英国軍の占領下で、ロワール河沿いのシノン(Chion)城が臨時の王宮となっていた。

自然が美しく、古城が多い「フランスの庭」といわれるロワール河中流にあるシノン城

パリを含むフランス北西部を占領していた英国軍は、パリから南へ約100キロメートル、フランス王家に忠誠を誓っていたオルレアンを包囲した。オルレアンは英国軍のフランス中部侵攻を阻止する最後の砦で、オルレアンでの戦果がフランス全土の運命を握っていた。
1428年10月12日より始まった英国軍のオルレアン包囲作戦(Siège d'Orléans)でフランス側のオルレアンの守備隊は防戦一方であった。翌年4月29日にジャンヌ・ダルクが救援部隊と共に船でロワール河からオルレアンに入城すると、市民から大歓迎を受け、戦況も一変した。それまで消極的であったフランス軍も、ジャンヌに率いられ攻勢に転じ、5月8日、僅か10日間で英国軍を完全にオルレアンから駆逐した。

ロワール河に面したオルレアン。
英国軍に包囲されたオルレアンにジャンヌ・ダルクと200名の援軍がロワール河から船で入城した

5月7日、オルレアン包囲戦でジャンヌの最後の戦場となった英国の軍事拠点トゥーレル砦 (fort des Tourelles)には、十字架像と碑文が設置されている。その日ジャンヌは、英国軍の放った石弓が肩に刺さり、自ら刺さったボルトを引き抜き戦った。ジャンヌは前日のオーガスティンの戦いでも足を負傷していた。

トゥーレル砦のブールヴァール(Boulevard 城塞の土塁)があった場所には、右手に剣、左手に軍旗を持つジャンヌ・ダルク像がたっている。
ジャンヌは旗手として兵士たちを鼓舞し、数多くの戦いを勝利に導いた。英軍が城塞を破壊して他の陣地に逃げ込み同朋と合流、フランス王軍は手を休まず攻撃することを主張したが、ジャンヌは8日が日曜日であったことから戦闘を中止させた。

ジャンヌが処刑されて4年後、1435年からオルレアンでは5月8日を記念してジャンヌ・ダルク祭が開催されている。現在は5月の第二日曜日にパレードがある。オルレアン市民からジャンヌ・ダルクに扮する女性が選ばれパレードの主役となる。

15世紀の王侯貴族たちもパレードに
オルレアン包囲戦の末期、5月6日にはジャンヌに刺激され奮い立ったオルレアン市民も民兵として参加する
フランス王軍の攻撃軍は1500名、約100メートル先の鎧を貫通する能力があった十字弓とも呼ばれる弩(ど)、クロスボウ(Crossbow 仏語:arbalète)は中世には重要な武器であった
15世紀初頭の大ブリテン島では、英国(イングランド)とスコットランドが戦っていた。敵の敵は味方という構図でスコットランドはオルレアンの味方、友好国だったスコットランドのバグパイプ隊もパレードを盛り上げる

オルレアンの聖十字架大聖堂。大聖堂は何度も修改築が行われ、現在の大聖堂はオルレアン解放400周年を祝い、フランス王シャルル10世の命により、1829年5月8日に完成、落成した。大聖堂の正面入口に通じる大通りは、「ジャンヌ・ダルク大通り」と命名された。
ジャンヌ・ダルクは、この地にあった聖堂でオルレアン包囲戦中に宵のミサ(Vesper)を受けた。

後編に続く。


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