扶助者聖マリア
Maria Ausiliatrice
初期教会の教父たちは、2世紀頃からマリアをギリシア語で「ボイシア(βοηθεια=助け)」と呼んでいた。
4世紀半ばのコンスタンティノポリスの主教で雄弁な説教のために"金の口"といわれた聖ヨハネ・クリゾストモが、初めて扶助者聖マリア(Maria Ausiliatrice)を聖母マリアの称号として使用した。
扶助者聖マリアは、中世にもキリスト教徒を助け執り成していた時代もあった。
十字軍の時代には、フランスの聖王ルイ9世が出陣した際に戦いの助けを願い、「マリア・オリアトリス(Marie Auxiliatrice)」と鬨の声をあげていた。
1571年、イスラム教徒から侵略を受けたヨーロッパ・キリスト教社会への未曾有の脅威に際し、教皇ピウス5世が扶助者聖マリアへ勝利のお取り成しを依頼し、見事ヨーロッパを守護してもらった。
扶助者聖マリアの記念日は、19世紀に入ってから教皇ピウス7世により制定された。
19世紀半ばにサレジオ会の創設者ドン・ボスコが扶助者聖マリア崇敬を広めた。
教皇ピウス7世は1809年7月にナポレオン1世麾下のフランス兵により逮捕され、ローマからフランスに連行され、約6年間の幽閑を余儀なくされた。
ライプチヒの戦いでナポレオンが敗れた後、1814年1月教皇は解放され、1814年5月24日にローマに帰還したことから、教皇は聖母マリアの取り成しと考え、この日を扶助者聖母マリアの記念日と制定した。
聖ヨハネ・ボスコ司祭(通称:ドン・ボスコ)は1868年、教皇の願いに応える形で扶助者聖母マリアのための大聖堂をトリノ市内北西部のヴァルドッコ地区に献堂した。
また、聖マリア・マザレロと共に「扶助者聖母会(現サレジアン・シスターズ)」を設立した。
ドン・ボスコは、聖母マリアを"教会の母"、"助力者"であるとの教皇の呼びかけに応え、教会と教皇への献身を表した。
5月24日の扶助者聖マリアの記念日にトリノ・ヴァルドッコ地区の扶助者聖マリア大聖堂では、早朝から特別ミサがある。
夕刻20時、大聖堂からヴァルドッコ地区を巡るプロセッション(行列)があり、ドン・ボスコ関連の信者団体、教育関係者なども参加し、延々と2時間近く続く。
イタリア北部、アルプス山麓の都市トリノは、150年程前のイタリア統一の際には首都となった歴史のある町だ。それまではイタリア北西部からフランス南東部を統治していたサヴォイア王家の王宮都市だった。
20世紀に入り、自動車メーカーのフィアットなどで知られる工業都市となったが、郊外には田園風景も拡がる。
現在は市内になっているヴァルドッコ地区にも、19世紀初頭までは農地があった。ヴァルドッコには19世紀前半に死刑執行場もあり、あまり環境が良い地域ではなかった。
司祭になったばかりのドン・ボスコは、ヴァルドッコの農地を借り、職の無い若者たちに仕事、教育を受ける機会を与えた。ドン・ボスコは、その地に職業訓練所、夜間学校、普通課程の学校、寮、運動場などを次々に造り、青少年の憩いの場、拠り所とした。1年もたたないうちに数百名の若者が集まるようになり、ドン・ボスコは、ヴァルドッコの地主ピナルディ家から納屋を購入し、オラトリオ(祈祷所)に使用し、その後、オラトリオに隣接して教会が築かれ、それがやがて扶助者聖マリア大聖堂へ発展していった。
ヴァルドッコ地区は、1950年から移民の居住区となり、中小企業の工場などもあることからドン・ボスコを慕った若者たちが多い労働者階級の住宅街となっている。
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