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美味しい焼き菓子はあの「マリア」から

ほんのりした香りとしっとりした食感で知られるフランスの焼き菓子「マドレーヌ(Madelaine)」は、「マグダラのマリア」のフランス語名「Marie Madeleine」に由来する。

焼き菓子マドレーヌは18世紀半ば、フランス東部ロレーヌ地方で誕生した。
17世紀初頭、ロレーヌ地方は神聖ローマ帝国の領土であったが、同帝国のマリア・テレジアがロレーヌのフランツ王子と婚約した際、フランスのルイ15世は岳父のポーランド王スタニスラフにロレーヌ地方を割譲することを条件に、マリア・テレジアとフランツの婚姻を認めた。

フランス北東部の中心都市「ナンシー(Nancy)」から東へ約50キロメートルの町「コメルシー(Commercy)」に、1744年からロレーヌ公スタニスラフ・レシチニスキ(Stanisław Leszczyński)の宮廷が置かれ、毎夜のように宮廷でパーティが催されるようになった。
1755年のある日、宮廷のパティシエが病に倒れ、デザートのケーキに困ってしまった。その時、料理長が美味しい焼き菓子のレシピを知る若い娘マドレーヌを思い出した。
マドレーヌにケーキを作らせたところ地方名産のバターと卵で美味極まりない焼き菓子を作り、来賓たちに供し絶賛された。それ以来、焼き菓子は若い娘の名前を取り、「コメルシーのマドレーヌ」と呼ばれるようになった。

ナンシーのスタニスラス広場
広場の中央にスタニスラス王像が立つ

マドレーヌ」は、19世紀後半の鉄道の発展以来、コメルシーの駅で「駅弁」ならぬ「駅菓子」として販売され、フランス各地に伝わり、フランスの焼き菓子として有名になった。
コメルシーの女性たちが大きな網籠(あみかご)にマドレーヌを入れて駅構内で販売する姿は、コメルシー駅の風物詩でもあった。当時「マドレーヌ」は、木材の薄皮で作られた木箱に入れられ販売されていた。
第一次世界大戦中(1914〜1918)には、兵士の慰問時のみやげとしてフランス兵士へ届けられていた。
19世紀後半の普仏戦争に敗れ、フランス北東部をドイツへ割譲していたフランスは、「マドレーヌ」菓子のご利益あってか? 第一次世界大戦に勝利し、領地を奪回することができた。

第二次世界大戦時までコメルシーにはいくつかのマドレーヌ製造業者があったが、戦後、1951年に「ツィン(Zinn)社」が纏めて、オリジナルの「コメルシーのマドレーヌ」として製造、販売し始め現在に至っている。

聖人録

マグダラの聖マリア

Maria Magdalena

新約聖書の中には「マグダラのマリア」と特定した聖女は記載されていない。マリアという名前の女性が複数記載され、その中で「ベタニアのマルタ(Martha Bethaniensis)」の妹マリアがマグダラのマリアだとする説が広く知られている。「マグダラ(Magdala ヘブライ語Migdal)」は、イスラエル北部のガリラヤ湖畔の村。マグダラのマリアは「罪深い女」と同一視され、イエスの磔刑時に聖母マリアと共にゴルゴダの丘でイエスの最期を見届けた女性とされる。イエスが墓に埋葬された後に墓参し、最初に復活したイエスに遭遇した女性ともされる。

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