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村上春樹の読者が抱える奇妙な倒錯について

 村上春樹がJ・D・サリンジャーの『The Catcher in the Rye』を訳して白水社から上梓したのは2003年4月で、その後2006年4月にペーパーバックの新書版として出版され現在に至っている。ここでは村上の「文体」ではなく解釈を論じてみたいと思う。

 最初に村上が注釈までつけて問題としている箇所を引用してみる。

 僕はDBの机の上に腰を下ろして、その上にあるいろんなものを見ていた。その多くはフィービーの持ち物だった。学用品。ほとんどは本だ。一冊の表紙には「算数は楽しい!」と書いてあった。僕は最初のページをちょっと開けて見てみた。そこにはフィービーの字でこう書いてあった。
  フィービー・ウェザフィールド・コールフィールド
    4Bー1
 これには参ったね。彼女のミドルネームはジョゼフィンで、ウェザフィールドなんかじゃないんだもの。でもフィービーはジョゼフィンという名前が好きじゃない。だから彼女は会うたびに、いつもいつも違うミドルネームを持っている。
 算数の本の下には地理の本があり、地理の本の下にはスペリングの本があった。フィービーはスペリングがすごく得意なんだ。彼女はどんな教科もすごく成績がいいんだけど、とくにスぺリングに関してはずば抜けている。スペリングの本の下にはノートブックがどさっとあった。全部で五千冊くらいノートブックを持っているんじゃないかな。そんなにたくさんのノートブックを持った子どもって、まずいないだろうね。僕はいちばん上にあったノートブックを手に取り、最初のページを開けてみた。こんなことが書かれていた。
  バーニー休み時間にわたしに会ってあなたに言いたい
  とてもとてもだいじなことがあるのよ。
 最初のページにはそれしか書いていなかった。次のページはこうだった。
  どうしてアラスカ南東部にはそんなにたくさんの缶詰工場が
  あるのでしょう?
  たくさんの鮭がいるから
  どうしてそこには立派な森林があるのでしょう?
  そういう気候があるから。
  アラスカ・エスキモーの生活をらくにするために
  わたしたちの政府は何をしたでしょう?
  あしたまでに調べること!!!
    フィービー・ウェザフィールド・コールフィールド
    フィービー・ウェザフィールド・コールフィールド
    フィービー・ウェザフィールド・コールフィールド
    フィービー・W・コールフィールド
    フィービー・ウェザフィールド・コールフィールド殿
  これをシャーリーにまわしてね!!!!
  シャーリー、あなたはいて座だって言ったけど
  でもあなたはただのおうし座じゃないわたしのうちにくるとき
  スケートぐつをもってくるのよ。

『キャッチャー・イン・ザ・ライ』p.270-p.272

 (野崎孝訳も引用しようと思ったが、「文体」以外はほぼ同じ内容なので止めておく。)

 村上春樹はここに注を施している。

 スペリングの得意なフィービーなのだが、この文章にはたくさんの綴りの間違いがある。缶詰(canning)は(caning)になっているし、射手いて座(Sagittarius)は(sagitarius)になっているし、「コールフィールド殿」の殿(Esquire)は男性にしか用いない敬称だ。there's は theres になっているし、 you're は your になっている。彼女に対するホールデンの評価が高すぎるということなのだろうか、そのあたりはちょっとした謎だ。

『キャッチャー・イン・ザ・ライ』p.280

 しかしここは注意深く読んでみるならば、最初のページはフィービーが書いたもので、次のページはバーニーが書いたもので、バーニーが綴りや敬称を間違えているので、フィービーは休み時間にバーニー会って間違いを指摘したかったと解釈することはそれほど難しいことではない。
 急いで付け加えておくならば、これは翻訳の間違いではない。翻訳は正しいのだが村上は解釈し損なっているのである。そうなると村上がそれまでどのような読書をしてきたのか、村上ではなく村上の読者の方に不安が生じ、それならば一層のこと解釈ではなくたまたま犯した翻訳の間違いであって欲しかったといういくつもの奇妙な倒錯が起こるのである。