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大江健三郎『美しいアナベル・リイ』と翻訳について

 『美しいアナベル・リイ』はそもそも『らふたしアナベル・リイ 総毛立ちつ身まかりつ』というタイトルで2007年に上梓された大江健三郎の長編小説である。

 最初に旧タイトルの解説を試みてみる。これはエドガー・アラン・ポーの詩「アナベル・リイ(Annabel Lee)」の最初と最後のスタンザで、1849年にポーの死後二日にして発表された名篇とされている(『ポー詩集』新潮文庫より)。以下、新潮文庫版『美しいアナベル・リイ』から引用してみる。

It was many and many a year ago,
  In a Kingdom by the sea,
That a maiden there lived whom you may know
  By the name of Annabel Lee;
And this maiden she lived with no other thought
  Than to love and be loved by me.

《在りし昔のことなれどども/わたの水阿みさきの里住みの/あさ瀬をとめよそのよび名を/アナベル・リイときこえしか。/をとめひたすらこのわれと/なまめきあひてよねんもなし。》(p.38)

For the moon never beams, without bringing me dreams
 Of the beautiful Annabel Lee;
And the stars never rise, but I feel the bright eyes
 Of the beautiful Annabel Lee;
And so, all the night-tide, I lie down by the side
 Of my darling ------ my darling ------ my life and my bride.
  In the sepulchre there by the sea,
  In her tomb by the sounding sea.

月照るなべ
らふたしアナベル・リイ夢路に入り、
星ひかるなべ
らふたしアナベル・リイが明眸俤めいぼうもかげにたつ
夜のほどろわたつみの水阿みさき土封つむれ
うみのみぎわのみはかべや
こひびと我妹わがもいきの緒の
そぎへに居臥ゐふす身のすゑかも。(p.141-p.142)

 詩人で英文学者の日夏耿之介ひなつこうのすけによる翻訳である。今となっては翻訳に翻訳が必要なレベルである。例えば、新潮文庫版の『ポー詩集』(平成19年の改版)の阿部保訳によるそれぞれのスタンザは以下のようになっている。

幾年か昔のことであった。
  海沿いの王領に
アナベル・リイと言う名前で
  人の知る乙女の住んでいたのは、
そしてこの乙女私と愛し合っていることの外は
  余念もなかった。(p.82)

というのは、月照ればあわれ
  美わしのアナベル・リイは私の夢に入る。
また星が輝けば、
  私に、美わしのアナベル・リイの明眸ひとみが見える。
ああ、夜、私の愛する人よ、恋人よ、
私の命、私の花嫁のそばにねぶる。
  海沿いの墓のなか
  海ぎわの墓のなか(p.84-p.85)

 阿部保の訳でさえ昭和23年のものだから結構分かりにくいとは思うが、日夏耿之介の訳はポーの原詩を越えて、より華やかなようになったように感じる。

 そもそも木守有こもりたもつが久しぶりに会った主人公にかけた言葉を思い出してみるならば、「What! are you here?」であり、主人公はこの言葉を「なんだ、君はこんなところにいるのか」と解釈しているのだが(p.12)、その英語の挨拶の日本語訳も原文より深いニュアンスを持つように聞こえるのである。

 主人公は「ミヒャエル・コールハースの運命」の映画のアジア版の脚本を担うことになり、舞台を地方の維新前後に起こった二度の百姓一揆に移して、コールハースを「メイスケ」にして、「メイスケ」が獄死した後に「メイスケ母」と「メイスケの生まれ替り」が指導することになる。

 主人公たちは地元の愛媛で「ミヒャエル・コールハース映画」の撮影に取りかかる矢先に、鎌倉の警察署の捜査員がやって来て撮影者のフィリップ・Aがチャイルド・ポルノに関する素材を蒐集していたことがバレて、「M計画」に参加を表明していた日本の大企業がスポンサーを降りることを懸念した木守は撮影中止を決めた。

 その素材の中には主人公が17歳の時に観たサクラさん主演の「アナベル・リイ映画」も含まれていた。何故か主人公はオリジナル版を観損なってしまったが(p.204)、柳夫人の屋敷にある映写室で無削除版を観ることになる。

 私はやっと安定した画面が、あらためてスチール写真として腹部と腿を映し出しているのを見た。いまはえぐられた`````傷跡きずあとと見えるところから尻の割れ目へと、目にしみる鮮烈さの赤が塗りたくられている(初めての部分カラー)。ゆっくりした間を置いて、スチール写真は、別のものに替わる。下腹部と腿は同じだが、傷からの赤い汚れはきれいにしてある。(医療の経験のある手が注意深くぬぐい取ったように。軍医の助手をしていたという男の手?)ただしみ``のようなものをへり``につけて、穴はほころびに見える。(p.211)

 
 「ミヒャエル・コールハース映画」の撮影が中止になった後も主人公は木守に誘われて「最終の仕事」としてサクラさんをメインに「メイスケ母」と「メイスケの生まれ替り」の物語を撮影するに先立って劇団が芝居を上演することになるのだが、地元の高校で演じようと試みた際の逸話を引用してみる。

 高校で二十分ずつサクラさんに演じていただく一人芝居ですが、教育委員会の意見もあるらしくて、校長先生が台本を見たいといってきました。三つの高校から、こぞって……結局、どの高校からも、強姦``輪姦``という言葉、「良かったか」というやりとり````をとってもらいたい、と要請がありました。(p.245)

 ここまで書いて個人的解釈を試みてみるならば、「メイスケ母」はエドガー・アラン・ポー自身で「メイスケの生まれ替り」は原詩の「Annabel Lee」ではなく、日夏耿之介の翻訳による「アナベル・リイ」であり、「Annabel Lee」は「強姦」されて「目にしみる鮮烈さの赤」をまとった「アナベル・リイ」になったのである。

 大江健三郎が『美しいアナベル・リイ』を執筆したのは大江が72歳の時なのだが、知性は言うまでもなく、言葉そのものに対する驚くべき繊細な感性は驚愕するべきことで、このような作家はもう現れないのではないだろうか。

 本当はここで終わせるつもりだったのだが、「逆」もありなのではないかと思ったので、もう少し書いてみる。

 久しぶりに出会った木守は主人公のことを当初「ケンサンロウ」と呼んでいる(p.40)のだが、それから三日目になって「Kenzaburo」と「正しく」発音するようになる(p.221)。「ケンザブロウ」でもなく「けんさんろう」でも「けんざぶろう」でもなく。

 大江が1958年に上梓した最初の長編小説『芽むしり仔撃ち』に関する逸話を引用してみる。

 私は見た。その前に本のタイトルが、❝You can see my tummy❞というものであることが、私の記憶の内側に、理不尽な気のする汚い指を入れてくるようであったのだが……
 《「あなたが見たかったら」と少女がのどにからむ、うわずって幼い声でいった。「私のおなかを見てもいい」》
❝❛If you want to❜, the girl said in a shrill childish voice that caught in her throat, ❛you can see my tummy.❜❞(p.171)

 『美しいアナベル・リイ』だけの引用では文脈が掴めないので、『芽むしり仔撃ち』(新潮文庫 1965.5.31 改版1997.8.25)から改めて引用してみようと思う。弟の飼っているレオという犬に手首を噛まれた少女を主人公が介抱している場面である。

 赤い寝着は短くかすかにあかじみていたが、き出しになった形の良いしなやかな膝小僧は皮膚に小さな傷もついていなかった。僕は熱心に力をこめて摩擦した。少女はふくらはぎにはゆっくり熱い血が戻ってき、おそらくはひそかに音をたてて流れはじめた。僕は自分の無数に傷があり、ざらざらしたぶあつい皮膚におおわれた膝小僧を考え、ももの内側の皮膚がそのまま伸びているような少女の膝小僧に感嘆した。少女は身動き一つしないで僕に足をまかせ黙りこんで、なかなか僕に作業を中止するようにいわないのだった。僕の掌の中で少女のふくらはぎは熱くなり、それが僕に李の腕に抱えられてまだ温かかった小鳥の躰を思い出させた。そして僕は自分のセクスが静かに固くなって来るのを火のように胸を焼く懊悩おうのうにすっかり当惑しながら感じていた。
「あなたが見たかったら」と少女が喉にからむ、うわずって幼い声でいった。「私のおなかを見てもいい」(p.145-p.146)

 ここでいう「おなか」は「理不尽な気のする汚い指を入れてくるよう」な感じで書いたのだから文脈に沿って言えば少女のセクスであるはずで、大江は「おなか」を「tummy」と訳されたことに違和感があるような物言いなのだが本音は分からない。

 『芽むしり仔撃ち』というタイトル自体も『Nip the buds, shoot the kids』と翻訳されている(p.171)。個人的には上手く韻を踏んでいて洒落たタイトルだと思うが、ここでもポーの「アナベル・リイ」の原詩と日夏耿之介の訳で抱いた印象と同じような感じを受ける。

 総じて英語は日本語と比較するならば「レンジ」が狭いという印象を抱くのだが、とりあえず『美しいアナベル・リイ』を「翻訳」という観点から論じてみた。