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安岡章太郎『伯父の墓地』の認識の違い

 安岡章太郎は『文藝春秋』の平成二年二月号に掲載された短篇「伯父の墓地」で平成三年に第十八回川端康成文学賞を受賞している。その後、『夕陽の河岸』に収録されて文庫化もされたが、ここでは『川端康成文学賞 全作品 Ⅱ』(新潮社 1999.6.20)を使用する。

 まずは冒頭を引用してみる。

 この頃アメリカでは、何かと日本がヤリ玉に上げられることが多くて、まるで真珠湾だと言う人もゐる。先日も或るアメリカの雑誌で「戦後日本では政府の指令で土葬が禁じられて火葬に換へられたが、かかる個人の重大事が一片の法律や命令で画一的に強制されるのは、われわれには考へられぬことだ」と日本人の異質さを強調してゐた由、わざわざこちらの新聞が取り上げてゐた。(p.189)

 しかし安岡はモスクワで見たガラス箱の中のレーニンの遺体を思い出しながらも、それはたまたまそうなっただけで、日本の歴史においては何度も為政者の意向や命令で土葬や火葬が禁じられたり勧められたりしたと急いで記す。

 話は変わって安岡は、松尾芭蕉の『冬の日』を論じた幸田露伴の『評釈「冬の日」』を論じた坂口謹一郎の随想集『愛酒楽酔』を取り上げ、芭蕉の「影法カゲボウのあかつきさむく火をたいて」の「影法」は露伴が言う「影法師」ではなく火葬の火を焚く人の姿ではないかという坂口の異議を肯う。

 坂口の「新潟県の没落地主」を父親の郷里の高知県山北村にダブらせながら、安岡は子供の頃に訪ねた時のことを思い出すのだが、今となっては何が楽しかったのか思い出せないのである。しかし昭和十八年の秋、入営の日が近づいてきた安岡は挨拶がてら土佐へ遊びに行った際に伯父と料理屋に行った時のことを思い出す。

 べろべろに酔っ払った伯父は寝泊まりができる場所であるにも関わらず「帰る」と言い出す。ここまで二人とも自転車で来ていたので安岡は渋ったのであるが、気難しく頑固な伯父は譲らず、二人は真夜中に一時間半くらいかけて帰ったものの、安岡はどのようにして帰ったのかは大変だったこと以外は覚えていない。

 伯父は岩手の盛岡の高校に行ったのだが、それ以外は満鉄の就職も断ってしまい、生涯地元で暮らすことになる。昭和三十年代半ばの春先に伯父が亡くなった時には安岡はアメリカ南部に留学しており、いったん街を出ると日本の農村と変わりはなく安岡に山北村を思い出させた。

 伯父が死んだ翌々年に安岡は用事があって高知県に赴き、伯父の墓参りの際に、伯父は土葬されたと従兄から聞く。土葬を禁じて火葬を命じたのは進駐軍の指令だと伯父は信じ込んでいたのである。だから高知市では土葬は禁じられていたので、伯父の遺体を抱いてタクシーで山北村まで運んだ従兄が役場と話をつけて土葬にしたのである。

 ここまで粗筋を書いてきたのだが、お気づきになっただろうか? 冒頭でアメリカの雑誌で日本で土葬が禁じられたのは「政府の指令」だとされていたのだが、伯父は「マッカーサーの命令」だと信じていたのである。
 この短篇は勝ってしまえばその後の相手のことなどそれほど気にすることもない戦勝国と、負けた後も相手にされたことを忘れることはない敗戦国のなかなか埋まらない認識の違いが描かれているのだと思う。