21日本文学演習Ⅰ 梶井基次郎

大沢正善 日本文学演習Ⅰ 1998 奥羽大学 記録尾坂淳一
教科書/梶井基次郎全集 ちくま文庫
教科書/年表作家読本梶井基次郎 河出書房新社
参考文献/池上嘉彦 記号論への招待 岩波新書
(梶井基次郎「路上」)

梶井基次郎研究文献目録
「中島敦・梶井基次郎・近代文学鑑賞講座18」角川書店
「文芸読本梶井基次郎」河出書房新社
「梶井基次郎・中島敦・日本文学研究資料叢書」有精堂
須藤松雄「梶井基次郎研究」明治書院
古閑章「梶井基次郎の文学」おうふう
安藤靖彦「梶井基次郎」明治書院

キーワード
「闇」白日の闇、影、ドッペルゲンガー

‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐前期

平成10年6月15日演習
梶井基次郎「路上」
1、書誌
初出「青空」第八号大正14年10月15日
所収「檸檬」武蔵野書院昭和6年5月10日
草稿「日記草稿」第六帖大正14年5月21日
メモ第七帖
大正14年10月25日近藤直人宛書簡に自解

2、語釈

3、構成=書簡参考
E停留所のこと
季節
富士の容積
人生に対する旅情
主題

4、背景
大正14年5月東京都麻布区飯倉片町32番地堀口方に下宿
5月10日宇賀康が訪ねE駅まで散歩、近道を発見
5月21日「崖で滑った話」をする
副題「目黒雑記の一」は「檸檬」所収時に削られる
メモ「旅情─と審美」
書簡「私が書き度かったのは、あの滑ったあとの変な気持ち(空漠の感及びそれに対する本能的な抵抗)です。」

5、評価
須藤松雄「梶井基次郎研究」明治書院
主題は「変な気持ち」だが滑ったことを書いたのか、それを通じて自己を語ろうとしたのか作者にも読者にも判然としない。

桐山金吾「梶井基次郎論─路上における自我の未分化─」国学院雑誌昭和56年
主題は「旅情と審美」であることは自解から容易に推測できるが、「路上」のモチーフが「滑ったこと」にあったのか「自分を語る」ことにあったのか判然とせずに、そのためテーマは漠然としており、自我も昇華せずに終わる。

古閑章「梶井基次郎の文学」おうふう
「路上」の主題は三段落以降にあり「書かねばいられないという気持」と「書くことによってこの自己を語らないではいられないという気持」と二側面が明示され書くという行為の二重性が本質的にある作品なのである。従来旅情が取り沙汰されすぎたのは多分に書簡の自解やメモといっためくらまし的要素があるためであろう。─「破滅」が真のテーマである。

安藤靖彦「梶井基次郎」明治書院
「変な気持」と「旅情と審美」という二つの主題に対する作者の腰は据わっていない。しかし実はその中に漂う心的態度は実感への希求となっている。

6、鑑賞
拙著「梶井基次郎路上─三元的認知─」参照

7、その他参考までに
「旅情」=違和感、「審美」=実感、これらはキーワードとして考えよう。創作態度として対象から距離をとるさみしさを「廓廖」とし、テーマに据えたか。実感を得るための変換装置として機能する違和感を失ったと考えると、廓廖という目立つ漢語が注目される。

テーマは「廓廖」か、「破滅」か、またそれは死を想わせるだろうか。末尾に「帰って鞄を開けて見たら、どこから入ったのか、入りそうにも思われない泥の固まりが一つ入っていて、本を汚していた。」とある。ヨゴレはケガレ(死)を想起し、本は作家の魂を想起させる。違和感をあじわうことから生を実感した作家が、破滅への抵抗に「本気」になることを「廓廖」と著した構成になってはいないだろうか。

逆に、旅情とは「空漠」に対する抵抗であり、抵抗することが生の実感であるとしよう。破滅の為に抵抗を忘れてしまうものの、助かったという結果は「まだ根源的な生が残っていた」ことの確認となったのではないか。

‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐後期