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■85アニメ「ソマリと森の神様」テクストは間違わない

感情も感覚も無いゴーレムが女の子とともに成長する「ありきたりな着想」、ソマリと再会し、ゴーレムの最後も描かれない「結末が無い」「肩透かし」といった批難がありますが、しかし、私はとても感動した作品です。

結局、「肩透かし」といった批難は的外れなんだと私は考えています。作品の結末といえば、シズノ、ヤバシラ、成長したソマリに囲まれ、寿命などとうに過ぎたゴーレムが微笑みの中で朽ちてゆく、と万人が想像するのですから。それを「描け」というのは、あたかも夜に絵本をねだる子どもの所業でありましょう。

文学には「テクスト」論という立場がありまして、発表された作品は間違いなども含めてひとつの完結したものとして扱う、というアプローチがあります。「ソマリと森の神様」も完結した作品として扱うに値する良作であります。ゴーレムの寿命は「不明」であり、ソマリから一度離れたゴーレムは前のゴーレムではありません。誰だって美しい結末を容易に想像します。

たいへん恥ずかしいはなしなのですが、「最近雇ったメイドが怪しい」という作品を拝見した際、ユウリとリリスがデートするんですね。ユウリが「行きたい所がある」と言うのですが、私は「遊園地とかかな?」と思ったのです。


ユウリは「怖くて来られなかった」といい、両親の墓に来たのです。私は自分の貧しさ卑しさに目眩がしました。ここは誰しも墓参りだと理解していたでしょう。私は馬鹿なんですが、ここまで自分が馬鹿だとは知りませんでした。

では豊かさとはなんでしょうか?お金に満足するとか、そういう事も大事ではありますが、ソマリの言うようにお父さんの代わりはいない、どんな姿でも一緒にいる、そういう事だと思います。「ゴーレム」という姿は比喩でありまして、例えば唐変木だとか、老齢であるとか、ハンデキャップがあるとか、父性の在り方だとか、いろいろ考えられますが、まずは、貧しい読み方をしないようみなさまにはお願いしたいと思います。

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