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【福島第一原発メルトダウンまでの50年】著者・烏賀陽弘道氏による復刻記念講演会記録

まえがき

 2021年11月20日(土)、山形駅近くの霞城セントラル23階にて「福島第一原発メルトダウンまでの50年」(以下、本書と呼ぶ。)の復刻記念講演会が開催された。

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 本書は2016年に明石書店から出版されたが、長らく絶版となっていた。そして出版から5年以上経った2021年9月、悠人書院という出版社から内容を増補した復刻版が発売された。

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悠人書院『福島第一原発メルトダウンまでの50年』復刻版表紙。

本書の説明

 本書は、福島第一原発(以下、福一と呼ぶ。)事故が何故起きたか、何故住民避難は失敗したのか、その原因の核心に迫ったものだ。

 福一の立地が決定したのは1960年代であり、メルトダウンが起きた2011年までは50年ある。この50年の間にどの様な出来事があったか調査した本書は、著者である烏賀陽弘道氏曰く「50年後や100年後、この事故について後世の人が調べるときは必ず本書が参照されるように書いた。」と述べていた。

 その言葉通り、本書は500ページ以上もあり読み応えのある内容となっている。原子力発電や原子力災害に関する技術的、法律的な専門用語も頻出する。ただし、それら用語については分かりやすく言い換えたり解説されていたり、読者に配慮されている。要旨も所々に書かれており、福一の事情に詳しくない読者でも理解できるように書かれている。

 本書は福一事故についてのエッセンスが凝縮された本である。政府や国会の事故調査委員会が触れてこなかった最重要部に著者一人でアプローチを試みている。その様な現実を、皮肉の意味もあるだろうか裏表紙では「たった1人の事故調査委員会」と形容している。

 本書は事故原因への深掘りに深掘りを重ねた本であり、緻密な取材をベースにしつつも、マクロ的視点からあの事故について俯瞰している第一線級の分析資料である。

 ただ私はもう一つの評価をしたい。
 本書は、フリー記者という孤独で無力な存在が巨大な現実に立ち向かう奮闘録でもある。

本記事の趣旨

 上述の通り、本書は福一事故についてのエッセンスが凝縮された本であると紹介した。今回の講演会は、それらエッセンスを更に凝縮した上澄み部分を著者である烏賀陽弘道氏自らが解説する講演会であった。

 著者は福一事故を10年一貫して追い続けてきた数少ない記者の一人である。その著者が今回4時間にも及び、本書の解説はもとより福一は現状どうなっているのか、今後どうなるのか、なぜ世間は福一に無関心なのか等についてご講話頂いた。講演後半には参加者の質疑にも応じて頂いた。

 この貴重な講演会の内容について、参加者だけの頭に留めておくのは忍びない。本記事を書いた経緯は、そのような理由からだ。

 なので是非ともSNSや口コミ等で、本記事や本書についてシェア&拡散頂ければ幸いだ。本文については、著者の発言をベースに私が注釈をつけるという形をとっている。講演内容は録音しており出来るだけ発言内容そのままに書き起こしているが、その際に不自然となった場つなぎ表現については筆者が修正している。

前半(著者講演)

 講演前半は基本著者だけが発言する独演だった。本書解説の他に取材の裏話や心情の吐露、なぜ大衆は福一を無視するのか等、話は多岐に渡った。

想像を絶する現実がある

 講演が始まりまず著者は、東日本大震災と福一事故について記者人生の中で経験したことのない取材であったと述べた。

(2011年当時)25年ぐらいジャーナリスト生活をしておりました。1986年に朝日新聞の記者になったんですね。

~中略~

 ベテランの経験をしてでもですね、福島第一原発事故というのは経験したことのない取材だったんです。

 3.11直後に被災地を訪れた著者は、記者人生をどう振り返っても見たこともない破壊があった。それは大津波により、東北地方の太平洋岸3キロは更地になってしまった現実を見たからであると言う。

 私の友達で志葉玲という、パレスチナやイラクの取材をしていたカメラマンがいまして、彼も3.11の取材に行ったんですけれども。彼によるとですね、戦争より酷いと言っていました。なぜかというと、戦争は人間が爆弾を投げたり鉄砲撃ったり爆撃したりして人間が破壊するので大抵破壊し忘れたものがあると。何かが残ってあると。

 ところが津波というのはですね、完璧に全てを持ってったんですね。千葉の房総から青森の500kmに亘って、海岸から3km何も無くなったというのが3.11だったんですね。

 ただ筆者は、岩手や福島の被災地を取材して「これは復興するだろう」と考えていた。阪神淡路大震災の取材経験もある筆者は、地震発生から約5年後に最後の仮設住宅にいた住民が退去したという事実があるからだと理由を述べる。しかしそれは地震に限って言えばの話であって、3.11は違った。

 (福島県)飯舘村から南相馬市に出て海岸の様子を取材し始め、岩手との最大の違いは何かというと、人が誰もいない。津波が海岸部を全てさらっていった。家も、商店も、道路もない。木も無い。そして、この様な光景は岩手と福島は同じだったんです。

 ところが岩手はそこに瓦礫を片付けたり、家の家財道具をですね、自分の家のものを拾い集める人が群がってたんですね。
 ところが南相馬から福島第一原発に近づいていっても、人が誰もいない。つまり当時この言葉を使うとですね、大バッシングを受けて大臣がクビになった人がいるぐらいなんですけども。まさにゴーストタウンだったんですね。建物はそのまま、街はそのまま、海岸部だけが壊れている。しかし人はいないという、そういう光景を私は初めて見ました。

~中略

 一言で言いますとその、避難で人がいなくなった街というのはですね。私はゴーストタウンというものを通り越してですね、この言い方をすると障りがあるのかもしれないんですけど、私は人類滅亡後の世界を先に見てしまったという気がしてるんですね。

 この後著者は、ハリウッド映画や小説の舞台として人類滅亡後の世界が描かれることがあるがそれを現実として見てしまった、と言い表した。
 それをして、人類滅亡後がテーマの映画を見ても全く驚かなくなった、現実の方が遥かに凄まじいから、そして、この事について一生取材すると決心した、と語った。

 一生取材するというのは、廃炉までの長い道のりがあるからだ。
 東電や政府としては2045年までの県外最終処分を目指しているが、日本原子力学会は廃炉に300年かかると見解を示している
 こうした事実を踏まえての発言だ。

 廃炉に最短で数十年、最長のシナリオでは300年かかるという現実を踏まえて著者は次のように言う。

 近代化以降150年、明治維新について以降150年(の歴史)かもしれませんけども、経験したことのない、大災害・大クライシス。私はこれは戦争に次ぐ大破壊という風に考えています。第二次世界大戦以来の大クライシスが日本に来たと僕は考えてるんですね。

無関心への抵抗を示す

 上記の通り、第二次世界大戦以来の大クライシスと形容した事故だが、世間はそれを忘れている事を著者は指摘する。

 ところがですね。何故か政府やマスコミを見てますとですね、皆完全に忘れとる。世論も忘れとる。10年前に戦争があったというですね。例えば太平洋戦争が終わって10年後は1955年ですから、皆あれなんですよね、戦争があったことを覚えてるんですね。

~中略~

 (福一について)今はもう全くそういう、こう、あれが無いですよね。ビビッド(vivid: 鮮明)さが無いですよね。私がやろうとしている事は、忘れさせない為の抵抗ですね。

 そして著者は、この大クライシスは全く終わっていないと指摘する。
 事実、2011年3月11日に発令された原子力緊急事態宣言は今も発令中である。

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 福一原発の状態というのは、2011年の3月11日夜から何も変わっていないんですよ。何も変わっていない。これは日本政府が公式に、法律で変わっていないと言ってるんですよ。ヤバイ状態だから警戒態勢でいてくださいねということですね。

~中略~

 で我々がですね、10年後、福島第一原発事故という戦争級のクライシスを前にして問われているのはですね。私たちがクライシス意識が無さすぎるという事なんですよ。つまりその、皆嫌な事は早く忘れたい、終わった事にしたいというバイアスが働いてですね。出来るだけ無かった事にしたいというですね、見たくない症候群が始まっているという事なんですね。

 見たくない症候群について、著者の発言をまとめる。

・この病気が進むと、福一について話題にしてはいけないタブーとなる。
・福一事故について、政府は無視するのでマスコミもニュースにしない。
・ニュースにならないので、世間は何事も無いかのように錯覚する。
・この錯覚が繰り返される内に忘却へと繋がる。
・忘却が進むと、無関心という自意識も消え果て、無作為へと派生する。
・無作為が進むと、無責任に辿り着く。
・今は、無関心→無作為→無責任の負のループに入っている。
・著者は、現実を無視しているこの状態の事を許せない。
・福一事故について、何時でもオープンな議論にしたい。

「第二の敗戦」の意味に答える

 話は本書のサブタイトルにある「第二の敗戦」の解説に入る。

 第二次世界大戦に負ける様な事をもう一回繰り返したのが福島第一原発事故であると。こういう風に私は総括するんですよ、私は10年目に。

 ところが、こういう自分の失敗を認める様な総括というのを、まだ政治家もしていないし、マスコミもしていないんですよ。これは僕はけしからんと思っている。つまり日本社会は今でも自分の失敗というものを認めるという事に極めて臆病であるということですね。

 政府や責任者の間違った判断により、国民に多大な犠牲を負わせたという事で第二次大戦敗戦と福一事故は共通していると著者は述べる。

 第二次大戦については、指導者層の愚かな判断により非戦闘員を含む百万単位の国民が犠牲になった。
 福一事故については、政府や東電のミスにより福島県浜通りと中通りの人達が(避けられたのに)放射能被曝し、家を失い、人生を破壊された。

 人生を破壊されたとはどういうことか。著者は一例を挙げる。
 3.11当時は13歳、福島県富岡町に在住していた秋元菜々美(Twitter)さんだ。秋元さんについては別途、著者がnoteで記事にしているのでご購読頂ければと思う。

~前略~

 要するにこれは、自分の13歳まで富岡で育った記憶というのを全て無かったことにされたのと一緒だと。つまりそこまでの人生というものは実態を失うとおっしゃった訳ですね。
 今は富岡の町役場に勤めてらしてるんですけども。富岡のお住まいは、未だに汚染で立ち入りができないので仕方なくいわきに住んでおられる。そういう方なんですね。これって人の人生を部分的に奪ってしまうということですね。秋元さんの場合は13歳で震災を迎え、原発事故で避難が始まるまでの人生とその後の人生が完全に分断されてるんですよ。
 僕これは要するに、その人の人生を部分的に殺してしまう事になるという。つまり部分的殺人だと僕は言っているんですね。

 つまり戦争ではあれでしょ、爆弾が落ちてきて家が焼かれて人々が焼け死んだり、南方のですね、聞いたことも無いようなフィリピンの近くの絶海の孤島に送り込まれてですね、そこでマラリアに罹って死ぬとか飢え死にする、米軍の鉄砲に当たって死ぬことが起きた訳ですね。これは命が全て奪われる訳ですから完全な殺人でしょ。

 だけど福一の場合は人生を半分奪われるとか、50歳までの生きてきた人生の内、50歳以前全部奪われるとかそういう事ですから、それって部分的殺人じゃないのと僕は思う訳ですね。そういう意味では、なんていうのかな、国の愚かな判断により国民の人生の一部又は全部を失うという意味では、これ立派な、福一も国による失敗のクライシスであると僕は定義付けてる訳ですね。

 国や東電の間違った判断により、必要のない犠牲が発生してしまった。その判断の誤りの原因について洗い出したのが本書であると、著者は述べる。

 サブタイトルに含まれる「第二の敗戦」とは、上述した内容を踏まえて題されたということだ。

集合知を検討しなければならない

 復刻版で増補された内容として、3.11当時の首相である菅直人氏と官僚側責任者である平岡英治氏のインタビューがある。平岡氏については、震災当時にSPEEDI(緊急時迅速放射能影響予測システム)のデータを握りつぶした張本人である事が本書に明記されている。

 この事実は、政府や国会の事故調査委員会や各社報道記事には登場しない、本書の核心の一つである。
 著者は、こうした事実を確定させる作業はもとより、確定した事実に基づいて皆で検討を加える事が必要であると主張する。

 こういう福島第一原発事故級の話になりますとですね、皆がよってたかって検討するのが大事だと思っております。というのは、政府の事故調が事故調査やってくれてるからその報告を読めば良いんだ、あるいは、国会の事故調もやってるからそれはいいんだ、というのでは無いんですね。

 つまりこれほど巨大な事故の事故原因とか詳細、つまりこういう歴史的な事実の確定ということですね。こういう事に関しては社会のマスコミ、原発事故には関係無いけれども似たような事をやってる研究者や学者ね。そういう人たちが公開されたこういう歴史的事実を基に寄ってたかって検討すると。こういうのを社会的な集合知と申します。

~中略~

 こういう社会全体が寄ってたかって検証を加えると。そういうことが凄く大事なんですよ。それで、社会全体が寄ってたかって検証を加える為には情報が公開されなくちゃいけない訳ですね。で、情報が公開された後やらなくちゃいけないのは、そういう一般読者にも分かる様に情報を分かりやすく翻訳して書き直すという、つまり我々の、記者の仕事なんですよ。

 事実を追いかけて報道するのは記者の仕事である。ただその後で具体的にどういう行動を取るのか判断するのは記者の範疇の外にある。その上で、その事実に対して皆が考え、検討する必要があるとのことだ。

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50年後、100年後に本書は真価を発揮する

 話は著書の職業である記者・ジャーナリストの仕事について及ぶ。

 ニュースや報道が積み重なれば歴史になる。我々記者は、その歴史を記録していくのが仕事であるという。それを踏まえ、本書はあの事故について記した歴史本であり、後世の人達が必ず本書を読まなければならない様に書かれたという。

 私の本は、今、静かに少数の人々が静か且つ熱狂的に迎えてくださる訳ですね。

 ところが恐らくこの本は、50年後、100年後に歴史家が、未来の歴史家が福島第一原発事故の時に何があったのと、という事を文献で調べるときには必ずこの本を参照せざるを得ないんです。思いますじゃなくて必ず参照します。何故かというと、僕はそういう本の書き方をしてるからです。

 世の中の書籍の大半は1~2年で消えてしまう、つまりその時点で消費されてお終いである。それはニュース報道についても同じであるという。

 我々が目にするニュース報道について50年後、100年後に消えないものがどれだけあるでしょうか。ほとんど無いんですね。

~中略~

 我々がですね、スマホのね、NAVERまとめ(注: 2021年9月サービス終了)とかね、あんなもん見てるもんはクズです。見ないで良いです。
 あるいはTBSが何かニュース速報でですね、小室圭さんに付き纏いましたとかね、あんなものは全て無視して下さい。皆さんが見るべきニュースは、歴史に残るニュースだけを見てください。

 我々が普段目にするニュースの中で、刹那的に消費されるものは全て無視して良い。歴史に残るニュースだけを見れば良いとのことだ。
 本書以外にも、著者が記した本については以下の様に発言している。

 全ての本が、私は50年後、100年後に読まれても耐えられるように書いています。

 ただ、世の中に流通する福一関係の書籍やニュースについては大半がそう書かれていない。理由はサラリーマン記者が2~3年で転勤し、その限られた期間の中で記事や本を書こうとするからだという。それは朝日新聞社の記者であった著者が身を以て体験した事実であると裏付ける。

企業型マスコミの弊害を語る

 この事を企業型マスコミの弊害、つまり組織的欠陥だと著者は指摘し一例を挙げる。

 (福島県)飯舘村という所があるんですけれども。そこの全村避難を指揮をした村長がですね、引退をしたんですよ。私、引退会見を見に行きましてですね。

~中略~

 10年経ちますとね。10年間に取材してた記者が一人もいないんですよ。一人もいなかった。これびっくりしましたね。ですから、村が避難で大混乱だった事を知ってる記者が誰もいないんですよ、記者は。これはびっくりしました。皆知らないものですから、一番びっくりしたのは共同通信の福島支局の女性記者で若い方だったので、その、入社2~3年目の方だと思うんですけれども、その原発事故で、良いですか。原発事故で、さっき言った様に日本戦後最大のクライシスで、村人6500人が避難するという大難事業をやってのけた村長にその女性記者が『質問があります。』て言ってね。はい、と言って当たるでしょ。はいどうぞ、って言うでしょ。そしたらその女性記者がどんな質問をしたかというと『村長の、村長在任中で最も思い出深かったことは何ですか。』と言うんですよ。

 その若い記者は会見している人物が飯舘村の全村避難を指揮した人物であることを知らない。そして、著者や地元の古株記者はこの質問に思わず顔を見合わせたという。

 著者曰く、この様な素人同然の記者がうじゃうじゃいるというのが現状であると。そしてこの企業型マスコミの現状を罪深い事であると同時に期待してはいけないと説明する。
 当然の帰結として、スマホやテレビで流れてくるニュースはこの素人同然の記者が書いたものが含まれている。そして、こう続けた。

 私がですね1986年に大学を出てプロの記者になってからですね。ニュースの質という点でいきますと、最悪の状況です。
 何が最悪なのかというと、ほとんどフェイクニュースから、凄く大事なニュースまで、スマホというプラットフォームで区別無しに洪水の様に流れてくる。このね、区別無しに洪水の様に大量に流れてくるというのが大事なんですよ。大事というか、ミソなんですよ。

 玉石混交(石の方が圧倒的に多い)の情報が瞬時に現れては消え、現れては消え、というのが現状である。本来はそれら情報を取捨選択しなければならない。ただ、それを出来る人というのは限られており大半の人はそのチラ見せされた情報を処理できず、(根拠も無いのに)妙な印象だけが植えつけられているのではないか、と解説する。

 上述した無関心→無作為→無責任という負のループについてもこれに重なる。マスコミが連日福一の事について報道していれば、福一の事がタブー(忌み事)として憚られることは無いはずであると語った。

 その弊害の実体験として、著者は以下の様に述べた。

 「福島第一原発事故について10年取材を続けているということは原発に反対なんですよね。」と言われたんですよ。あの、高校時代の同級生と同窓会で会ったらそう言われました。

 福島第一原発事故を10年取材しているということは反対する動機があるからではと、人々は私(著者)を邪推していると言う。

テクノロジーは中立である

 著者は原子力発電所のリスクについては論じている。ただ、原発そのものに賛成か反対かについては意味のない設問であると結論付ける。

 日本にある54の原子炉は全て海岸線の上にあるので、あれですよ。日本という地震大国ではリスクが高いと考えてますよ。
 だからといって、じゃあね、私は取材で行ったことがあるんですけれども。アメリカの砂漠の真ん中にあって半径100km以内に人がいないというとこに原子炉があるのは反対なんですかと言われたら、『いやあ』と思うんですね僕は。勝手にやってくださいと。

 アメリカでは、原子炉の暴走実験(注1)なんてしょっちゅうやってますからね。だから原発からね、原子炉を砂漠の真ん中に置いといて、制御棒をボーンボーンボーンと引き抜いていくんですよ。そうすると何本目で爆発するかという実験があるんですよ。アメリカではこれずーっとやってます。実際に僕、やったことのある人に取材したことあるんですけれども。

 要は、原発に反対するかどうかなんていうのは意味のない設問なんです。
これは、テクノロジーは中立であるという事を忘れてるんです。

~中略~

 原発そのものに反対かどうかと言われると、僕は賛成でも反対でもないという事なんです。テクノロジーというのはそういうものなんですよ。

注1
BORAX実験のこと。1950年代から1960年代にかけて、アメリカのアイダホ州の砂漠で行われた原子炉の安全実験。実験者であるアルゴンヌ国立研究所自身が実験の様子をYoutubeで公開している。
BORAX - Construction and Operation of a Boiling Water Power Reactor

 言うまでも無いが原子力発電というのはテクノロジーだ。そこにイデオロギーは存在しない。
 著書は例として、コンクリートを挙げる。つまり「あなたはコンクリートに賛成ですか、反対ですかと。」聞いているようなものであり、この設問は成り立たないと論説する。

 設問自体が論理的に成り立たないのに、原発事故を取材しているから反原発の立場であると、著者は勝手に思われていた。
 この状況を、著者はこう例示する。

 まるでこれは戦争は嫌だといっていると、太平洋戦争中の日本では自然に非国民と呼ばれていたのに似ていますね。

 つまりそれは私が決めるんじゃなくて、周りが私に対してどう思っているかという評価で決まるという事なんですね。
 つまりこれは偏見であると呼ばれるものです。私がもう一つ戦わなくちゃいけないのは、この偏見というやつですね。

 この偏見について、下記の通り続ける。

 福島第一原発を巡る扱いというものは私10年間当事者として体験してたわけですけどね。そこで感じるのは社会のありようそのもの、人々の意識そのものなんですよ。
 つまりこの異文化を拒む社会、異論を拒む社会、そして一つの流れが何時の間にか出来上がると全員がそれを無意識に追いかけるという、特に何の根拠も無く追いかけると。

~中略~

 日常のスタンダードというものが決まっていて、そこから逸脱するものは全て異分子であるという発想。これをどうしても辞めたい。

 著者は、異分子を排除するメカニズムが形成されていることを福一事故の取材経験から述べている。

大衆は発狂している

 そして、日本にいる多数派の人々についてはこう語る。

 日本人のマジョリティというのは既に発狂しておりますので。だってそうでしょ。なぜTBSが、小室圭さんが18時間飛行機に乗るときのセーターの色を報道せないかんねんと。そんなの資源の無駄遣いでしょ。そんなんだったら福島第一原発の被害地に行けよと、思いますよね。当たり前でしょ。馬鹿げてるんですよ。

 だけどそれでも、彼らは視聴率が取れるからって行くわけですよね、小室圭さん追っかけて。これは狂ってる。テレビ局も狂ってますけれども、それを喜んで見てる大衆が狂ってる訳でしょ。それが視聴率が取れるという現実が狂ってる訳でしょ。大衆が全員狂ってる訳ですね。
 つまりその、日本の社会のマジョリティは既に発狂しております。残念ながら。既に良心を失っております。

 入国管理局でスリランカ人がなぶり殺しにされても誰も何とも思わない。病気で30回吐いても医療的な手当てを受けられなかったという、けど誰も労わらない。そういう非人間的な事にムカつく。

 つまりね、無関心が行き着く先というのはね非人間性なんですよ。人間に関心を失うという事は非人間性なんですよ。でこれはですね、巡り巡って我々自身に返ってきます。他者を非人間として扱う人間は、自分が非人間として扱われることを受け入れねばなりません。

 無関心の話題が再出する。そしてその結末は非人間性であると、著者は主張する。

 話題は移り、福一は今どうなっているのかの説明に入る。

チェルノブイリとスリーマイル島、福島第一原発との比較

 まず、他の原発事故と福一事故を比較する。

 商業型原子炉が暴走し、周辺住民を被曝させたのは歴史上3例しかない。
 1979年のスリーマイル島、1986年のチェルノブイリ、そして2011年の福一原発だ。この3例を比較し、この事故の巨大さを説明する。

 著者の講演内容をベースに、筆者が3事故の比較表を作成した。細かい数字については資料により異なるので概算として見て頂ければ幸いだ。

※参考
京都大学大学院『No.121 福島原発事故の処理、廃炉は何年かかる?40年前の米TMI事故炉の廃炉も未着手 』

朝日新聞『米スリーマイル島原発が運転終了 60年かけて廃炉へ

NHK 『WEB特集 放射性廃棄物という難題

 全体的に見ればチェルノブイリ原発事故の巨大さが際立つ。
 ただし福一で厄介なのは、メルトダウンした原子炉が3つあることだ。当然だが、メルトダウンした原子炉の廃炉作業を3炉分繰り返さなくてはならない。

 そして、福一原発で融け落ちた燃料デブリは880トンあると推量されている。この燃料デブリは、人間が近づくと短時間で死に至る放射線を放つ。しかも融け落ちた過程で周辺の構造物や電気用の配線・建屋のコンクリート等を巻き込んでいる為、このデブリは人類にとって未知の組成物が含まれる。これが困難な廃炉作業を更に難儀にさせる理由である。

 加えて、燃料デブリ以外の放射性廃棄物が780万トン出ると予想されている。この大量のゴミの行先(最終処分場)は未定である。

ALPS処理水への認識を改める

 講演内容は、ALPS処理水へと移る。

 福一で融け落ちた燃料デブリは、未だ崩壊熱を持っており冷やし続ける必要がある。東電は原子炉内部に水をかけて冷やし、そのデブリに直接触れた汚染水を回収し福一敷地内のタンクに貯蔵している。そのタンクに貯蔵された汚染水をALPSという装置で浄化した後、海洋へ放出するという事を計画している。

 ALPSについては、東京電力のホームページから引用する。

 多核種除去設備(ALPS)とは、汚染水に含まれる放射性物質が人や環境に与えるリスクを低減するために、薬液による沈殿処理や吸着材による吸着など、化学的・物理的性質を利用した処理方法で、トリチウムを除く62種類の放射性物質を国の安全基準を満たすまで取り除くことができるように設計した設備です。

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 要するに、汚染水に含まれる放射性物質を国の安全基準以下まで取り除いて海洋放出しようと計画している。筆者は「じゃあ大丈夫なのか。」と、この東電の説明に半ば騙されかけていたが著者はこのリスクを詳述する。

 福島県富岡町に東電がやっている廃炉資料館というものがあるんですよ。昔はエネルギー館だったんですけどね。行って見学したんですよ、勉強しようと思って。

 そしたら展示みたらね、ALPSで処理した水にもね、セシウムとかウラニウムとかプルトニウム、いや、ストロンチウムとかセシウムは含まれてますと書いてある。えっ、と思って「トリチウムだけなんじゃないんですか?」と聞いたら『いやいや一応他の各種も含まれてます』と言うんですよ、東電の人が。で僕はびっくりして、「えっ」とか言って。じゃああれですかと、海にトリチウムとか、トリチウムの他にストロンチウムとかセシウムも捨ててしまう訳ですねと聞いたら、東電の人が『はいそうです。けど政府の基準は下回っております。』と言っています。

 トリチウムだけが問題であるかの様な世間の認識であるが、他の核種も含まれる事を東電がはっきり述べている。トリチウムだけに焦点を当てた報道は的外れであり詭弁であると述べた上で、著者はこう述べる。

 燃料棒に直接触れた水を海に捨ててる原発は世界に一つもありません。

 原子力発電所の設計として、燃料棒に触れた水は原発内部の機器や配管をグルグル回るだけで外に放出しないのは公然の事実だ。

 もう少し説明すると、燃料棒を通過し熱を持った水(蒸気)は原発内で循環しループを形成している。そして大事なのは、もう一つループがあることだ。海水(河川水)を取り入れて、先述した水(蒸気)の熱だけを熱交換器でこの海水(河川水)に移して海に捨てるというループだ。

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北海道電力 - 泊発電所の発電のしくみ から抜粋

 正常運転している原発は排水を環境中に排出しているが、それは後者の方だ。そして熱交換の過程でどうしてもトリチウムは生じる。なので世界の原発は必然的にトリチウムを環境中に放出している。

 繰り返しになるが、議論の焦点はトリチウムではない。燃料デブリに直接触れた水を海洋中に放出しようとしていることだ。しかも、ALPSにより放射性物質をフィルタで濾してもトリチウム以外の核種は完全に除去できないことは先ほど述べた。

 ちなみにこの処理水については、人間が70年間毎日2リットル飲んでも安全であることを政府が示している。

参考
資源エネルギー庁『福島の“汚染水”対策④放射性物質の規制基準はどうなっているの?』から抜粋

水中における告示濃度限度
放出口における濃度の水を、生まれてから70歳になるまで毎日約2リットル飲み続けた場合に、平均の線量率が1年あたり1ミリシーベルトに達する濃度

 ただ問題はそこではないと著者は述べる。

 まず1点目は、国の安全基準が濃度であることだ。カロリーハーフの飲料を普段の3,4倍も飲んでは意味が無いのと同様に、いくら濃度を薄めてもトータルの放出量が多ければリスクは増す。

 2点目は、海洋に放出された放射性物質が具体的にどこに向かい、どこに溜まるかはわからないことだ。
 ALPS処理水は人間が飲んでも安全であることは先ほど示した。ただその中に含まれる放射性物質がプランクトンや魚・海藻等に取り込まれ、食物連鎖の過程で生体濃縮されるかもしれない。その放射性物質の挙動は放出してみないとわからず、いざ危ないと思って辞めようと思った時点では手遅れになっている。

 こういう、リスクや因果関係が不明な物質を規制する制度や考え方を予防原則(Precautionary Principle)という。

 例として著者は二酸化炭素を挙げる。呼吸や炭酸飲料を飲む事を考えると人間の体は(ある程度の濃度までは)二酸化炭素に触れても無害である。ただ二酸化炭素を環境中に放出すると、地球温暖化の原因物質となる。

 人間がその物質を取り入れて無害であるからといって、それを環境中に放出した場合にリスクがあるかどうかは別問題である。これは数十年に及んで人類が学んだ教訓である。そして、ALPS処理水放出はこの予防原則に逆行する行為であることを指摘した。

官僚機構の欠陥を語る

 休憩を挟んだ後、話は官僚機構の事へシフトする。具体的には、官僚機構の文書主義とスピードの遅さにより住民避難が遅れたことだ。

 「福一はもう絶体絶命やから避難して」って緊急通報してから大体2時間20分ぐらい経ってるってことでしょ。2時間か、2時間だよね。
 つまりこれだけのロスが生まれるんですよ、官僚機能の中を通過するだけで。で、この避難命令が現実の大熊・双葉の町役場に到達したのはその日の夜なんですよ。

 福一現地から原子力・安全保安院に通報が入り経産省を通過するのに50分の時間をロスした。そして、経産省から首相官邸へ情報が上申され避難命令を発するのに1時間20分を要した。

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 これらのタイムロスが双葉厚生病院の惨事に繋がる。

 事実として、2回目の水素爆発が起きたのは3月12日の15時36分。そして、双葉厚生病院から住民グループ最後のバスが出発したのは16時頃だ。
 この双葉厚生病院には当時の井戸川町長や寝たきりの患者、医療関係者約300人が取り残されていた。彼らは30分差で逃げ遅れ、放射性降下物を直接体に浴びた。

 著者は事故当時にこの病院にいた人へインタビューしており、こう語る。

 病院の患者さんをストレッチャーで運び出してバスにヨイショヨイショってね。寝たきりの人ですから、皆で抱えて載せる作業をしてたら、『ズンッ!』ていうのが来たと、地響きと振動ですね。
 なんだろうと思ってたら、5分ぐらいしたら上から牡丹雪みたいなのが、綿みたいな物質が落ちてきたそうなんですね。これは水素爆発で吹き飛んだ、恐らく福一の配管の断熱材だっただろうと。つまりあの、石綿みたいなもんですね。ファイバー材が落ちてきたと。皆それを見て呆然としてですね、皆。

 これは私、当時の井戸川克隆町長に話を聞いたんですけども、全て終わりだと思った、と言ってた。これは死ぬんだと思った、とおっしゃってましたね。で、皆ジャンパーとかに、もろ放射性降下物ですよね、それを付いてるのを、手でしょうがないから、ぽんぽんと掃ってバスに乗って逃げたと。

 もし、福一から直接現地の双葉町や大熊町の役場に通報が入っていれば避難は早く開始できたはずである。この情報伝達の遅れについて、著者は更にこう続ける。

 こういう風な官僚制度があるが故に国民が犠牲になるという官僚制度の欠陥。特に、国の官僚組織の欠陥ですね。これは福一以降、全く改善されていない。

 我が国の官僚制度について、スピードを要する緊急避難時には全く不向きであること。そしてこの欠陥については福一以降も検証されず、また、改善されていないと指摘する。

 更に、福一事故で避難住民の大渋滞が発生したことを鑑みて他の原発で事故が起きた場合に早く避難できるのか調べてみた結果、24時間以内の避難は不可能ということが交通工学の専門家によって示されている。

 交通工学の先生が全国の原発の周辺道路を調べて、その地元の居住区域の人々からね、計算して、避難できるのかという計算した本があるんですよ。それをね、私買って読んだんですけれども、結論は全国どの原発でも福島第一原発級の事故が起きたら住民は24時間以内に避難できないという結論なんです。

 ここで筆者単独の講演は終わり、参加者からの質疑応答へ移る。

後半(質疑応答)

質問 - 平岡さんのインタビュー内容について、松野さんや永嶋さん(※)はどう反応されていたか。
※松野さんや永嶋さんは本書に登場する重要人物。本書を持ってない方は購入して確かめて頂きたい。

-- 松野さんからすると、平岡さんのおっしゃってることはけしからんと言う。説明すると、原発事故が起きた際のシミュレーションを散々繰り返しノウハウを蓄積してきたのに、それが全く活かされていなかったことに対しての反応だ。
 平岡次長と松野さんや永嶋さんらのチームとは当時から仲が悪く、平岡次長はこんなシステムは役に立たないと言い続けてきたそうだ。松野さんは平岡さんの事をはっきりと覚えており、嫌な思い出として語っている。
 そして松野さん曰く、平岡さんはこんなシステムは役に立たないと言う事で責任を押し付けているのではと、ただそれは筋違いであると主張する。

 松野さんから言わせると、それはね。内科のお医者さんがね、内臓が見えないから病気がわからないと言っているようなものだと。

 システムが役に立たないなら役に立たないなりに、やり様はあっただろうということだ。それが責任者としての責務であり裁量であると。

質問 - 福一事故が起きることを大手マスコミは何故予測できなかったのか。そして、福一事故のことを何故報道しないのか。

-- 著者が在籍していた朝日新聞社を例にとると、業績悪化が原因の一つである。新聞社は出費を抑えようと人員を減らし出張取材を認めなくなった。担当記者は様々なジャンルを受け持つことになり、専門性が損なわれ仕事が雑になってしまった。
 そして更なる収益悪化を恐れ、人々が嫌がるネガティブな報道はされなくなってしまった。福一事故はその最たる例であるという。新聞社に限らず出版社でも状況は変わらない。著者が福一事故の話を出版社に持ち込むと、悉くボツにされたと語った。
 つまり、こういう悪循環が成り立っているという。

・収益悪化の影響で、福一の話題は報道せず本にもしない。
・福一に関する人々の関心は薄まる。
・関心が無くなるから、福一の記事は読まれないし本も売れなくなる。

質問 - 50年後や100年後にも生き続ける本を書こうと思ったきっかけや理由は何か。また、その歴史に残るような本を書いている方は、著者以外に誰かいるか。

-- 歴史に残る本を書こうと思ったのは東日本大震災の惨状を見たから。つまり、100年後の歴史に残さなければいけない事象に出会ってしまったからと振り返る。
 そして、なぜアメリカでジャーナリズムが発達しているのか、こう理由を語る。

 戦争とかに行くと、その現実が記者を叩き上げるんです。目の前で人殺ししてますからね。で私は戦争の従軍取材はしたことが無いんですけれども、三陸の取材に行ったときゾッとしたのは、この100メートル四方で100人200人が死んでる様な所を取材するわけですね。そういう時は足が竦むんですね。で、その家族に会って話を聞かなくちゃならない時は自分というものが問われるんですよ。

 この後、著者は木村紀夫さんという方を挙げる。木村さんはご家族である妻の深雪さん、娘の汐凪(ゆうな)さん、祖父の王太郎(わたろう)さん3人を津波で亡くされている。自宅は津波で流され、中間貯蔵施設という除染で出た汚染土の埋め立て地に組み込まれてしまった。

 木村さんについては、著者が記した以下の記事でも詳しく述べられている。

フクシマからの報告 2021年冬
10年前見た行方不明の家族を探すチラシ
そのお父さんにようやく会えた
自宅跡は核のゴミ捨て場に
それでもなお娘の体を捜し続ける

 その悲劇や惨状を経験した人と相対し記事を執筆するときに、現状の100分の1も伝えきれてないのだと著者は苦悩している。そしてこれは世界の記者が共通して抱える問題である。

 現実が記者を鍛え叩き上げるという前提を踏まえ、歴史に残る本を書いている人物や本について、著者は下記の様に例示する。

デイヴィッド・ハルバースタム『ザ・コールデスト・ウインター 朝鮮戦争

デイヴィッド・ハルバースタム『ベスト&ブライテスト

添田 孝史『原発と大津波 警告を葬った人々

柳田 邦男『マッハの恐怖

柳田 邦男『恐怖の2時間18分

 そして日本のジャーナリズムが最盛期を迎えたのは、柳田邦男や立花隆、猪瀬直樹らが若く現役だった1980年前後であり、それ以降は劣化していると口述する。

 ただ、今の時代はインターネットとSNSがあり誰でもジャーナリズムを体現できると続ける。事実を集め検証し文章に綴りSNSで発信するという初歩的なスキルさえあれば、明日からでもジャーナリストになれる。なので、皆さんもやられてみてはどうでしょうかと薦める。

質問 - インディペンデント原則・ニュートラル原則・フェアネス原則といった報道倫理をマスコミは守っていない様に思えるが、著者の見解をお聞きしたい。

-- 話の導入として、著者は最初に挙げた3原則について解説する。

 インディペンデント原則は、誰からも介入されることなくその報道組織の意思によって全てを決定しなければいけない。具体的には、利害関係者や権力側の検閲を禁止するのはもとより、報道組織販売部門の介入も許さないことだ。
 前者については、日本国憲法の21条に明記されている。
 後者については、売上の多寡によってニュース価値は左右されないことである。視聴率が取れるからその話題ばかりを報道するが、視聴者が好まないニュースは報道しない、というのはこの原則に違反する。大クライシスである福一事故の報道が少なく、小室圭さんの報道ばかりをしている日本の大手マスコミはインディペンデント原則に違反する。

 ニュートラル原則は、報道側は利害当事者になってはいけないことだ。
 悪例として、朝日新聞社は夏の甲子園を主催しているが自社でこれを宣伝している。他に、読売新聞の育ての父である正力松太郎は日本に原発を持ち込んだ当事者であるので、読売新聞は原発については利害関係者となる。
 これらの事実から、日本のマスコミは平気でニュートラル原則を破っていることがわかる。

 フェアネス原則は、報道対象については良い事も悪い事も公平に取材しなくてはならない。バッシングばかり、褒めるばかりの報道はこの原則に反するということだ。

 日本のマスコミはこれら原則を破り続け、読者や視聴者もそれが当たり前だと錯覚している。このガラパゴス的な日本に少しでも世界標準の考え方を入れたいと考えている、と著者はこの話題を締めくくる。

 ちなみにこれら原則については、著者が記した『フェイクニュースの見分け方』でも解説されているので、ご参照願いたい。

あとがき

 講演会に参加した筆者の感想や意見を述べる。

社会的な総合力が欠如している

 本書のまえがきに以下の記載がある。

 それは「日本社会には、原発という巨大なエネルギー源を引き受け、運転していくに足る総合力があるのか」という疑問だ。そして調べれば調べるほど、悲観的に針が傾くのをいかんともしがたかった。

 本書で暴かれた事実そして今回の講演内容からも、日本には原発を運転する資格は無いと筆者は考えている。

 官僚機構の欠陥故に住民避難が遅れ、彼らを被曝させたこと。そしてその欠陥は検証されることも改善されることもなく現在に持ち越されている事。
 巨大なニュース価値を持つ福一事故について報道せず、他人のプライバシーを侵害し些末なことを報道し続ける大手マスコミ・まとめサイト。それらを喜々として見る視聴者や大衆の存在。

 語ればキリが無いが、日本は世界標準から取り残されているのだと実感するばかりである。微力ながらも筆者はこの現実に抵抗したいと、こうして記事を書いている。

福一事故をマクロ的視点から眺める

 福一事故についてはニュース記事が数多にあり筆者もそれらに目を通してきた。ただ、ミクロ視点に寄りすぎて全体像を見通せない、報道倫理に反している、議論としては的外れ、こういった記事が多いと印象を受けた。

 それらと対比し、本書はマクロ的視点からもミクロ的視点からも福一事故を知る事ができる本である。本書を熟読したら、福一事故について他人に説明できるぐらいの知識は身に付けられたと筆者は思う。また本書を読んでからは、まとめサイトや大手マスコミのニュース記事がいかに的外れで稚拙であるかを思い知らされる。

 今回の講演会内容は本書のエッセンスを更に凝縮したものであると最初に記した。それは上記に記した記事内容をご覧いただければお分かり頂けるだろう。
 ちなみに講演会の参加料は2,500円だったが内容を考えると破格中の破格だ。筆者の主観ではあるが、この価格の数倍数十倍でも惜しくない中身だった。この講演会に参加できたことを幸運に思う。

最後に

 筆者が浅学非才で文才も無いが故に、この講演会の面白さを100分の1も伝えきれていないと苦悩するばかりだ。今後は著者である烏賀陽弘道氏の福島現地スタディツアーや書籍出版は計画されているようなので、是非とも氏のTwitterをフォロー頂ければと思う。

 今回の講演会については、プラットフォーム・キビタキ様が主催された。関係者としてキビタキ様からは渡辺理明様と田畝様・藤田様、著者である烏賀陽氏、そして本書編集者である悠人書院社長の福岡様がご参加されていた。
 この素敵な講演会を企画・主催されたプラットフォーム・キビタキ様、本書を出版頂いた福岡様、福一事故の巨大な現実を素人にもわかりやすくご教授頂いた烏賀陽様、講演会を彩ってくれた参加者の皆様にはこの場を借りて深くお礼を申し上げたい。

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