断片:「私は想像する」

この記事は以下の日誌へのコメントでもありますが...

ただ、記事全文に対する反応ではなくて、一部に対してのコメントなので、千円は払えん!という方のために(笑)その部分だけ引用します。

 他者の存在や世界に想いを馳せるために大いに役立つテクノロジーは豊富にそろっていて、しかもますます充実している。だがそれに反比例して、人びとは加速度的に、他者や他者の世界への「想像力」を失っている。
 お互いの言葉が届かず、姿も見えず、住む場所も違い、壁で隔てられていた時のときの方が、まだお互いのことを「想像」できていた。
 「想像力」の求められる時代に逆行するかのように、自分さえよければそれでいい、いまさえよければそれでいい、自分の考えこそが唯一無二の真実である、自分の世界観こそがただしい――そう信じてやまない人ばかりが増えている。
 いったいなぜなのだろうか?

日本の社会は様々な困難を抱え、そのために多くの人が明日の見えない日々を送っています。こんな時代と環境だからこそ、私達は異なる他者に対する想像力を働かせて、共に進むべき未来を模索しなければならない...というのに現実はどうだろうか、という嘆き。共感する人も多いんじゃないでしょうか。SNS等の発達でいまここにいる他者の声を、その肉声を聞くチャンスは豊富にあるのに私達は彼らのことを知らないし知ろうともしない。想像してみようとすら思わない。なぜか?

逆なんだろうと思うわけですよ。私達は知らないからこそ想像できた。想像の力に頼ることでしか相手を理解できない、と謙虚に捉えていたからこそ、十全に相手を「知った」などというおこがましい考えを持たなかった。そういう話なのではないだろうか、と。

人間の視覚というのは、いや五感のすべてにおいて私達の知覚というものは「自分が必要とする情報のみを選別して認識する」という働きをしていると言えます。たとえば視線と同じ視点でビデオ映像を記録したとして、それを再生してみた映像が自分の記憶にあるそれと寸分違わぬものかどうか。実験してみるとわかると思いますが、かなり細かいところで記憶にないものが写り込んでいるのがわかるでしょう。「おわかりいただけるだろうか?」私達は自分が見たいと感じるものしか見えないわけですよ。そんな人間の前に過剰と言える量の他者に対する情報が流れ込んできたらどうなるか。想像力を働かせようとする以前に、そもそも相手をちゃんと「知ろう」と思うものかどうか。思ったとしても出来るかどうか。

人間というものは因果なもので、たとえ自分で自分を客観視していると考えていても、その「客観視された自分」もまた見たい自分像に過ぎないわけです。鏡を見ていたとしてもそこで見ているのはミラーワールドで闘う自分に過ぎなくて、「いまここ」にいる自分ではない。まして他者に至っては...

私達に今現在切実に求められている想像力があるとすればそれは「自分は自分のことすら何も知らない」と想像する力なんじゃないでしょうか。自分は自分のことをよくわかっているという傲慢な考えを持ち続ける限り、「他者のことを理解していないかもしれない」という謙虚さは生まれますまい。紀元前という遥か昔に偉人ソクラテスが「無知の知」という遺産を私達に残してくれました。今一度それを思い起こそうではないですか...


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